68年メキシコ五輪の裏の真実・後編
メキシコ在住15年目、
「メキシコの素顔を世界に!」 をモットーに、 メキシコ公認ツアーガイド兼ドライバーの岩﨑コウです。68年メキシコ五輪の裏の真実・後編

☝マラソンで銀メダルに輝いた君原健二さん。
昨日の前編は、 サムネイルの写真が悪かったのか? またもや史上最低反応率を記録してしまいました。(苦笑) 政治問題に関わるので、 表向きはメキシコ五輪にしたんですが、 きっと伝わらなかったのでしょう。(沈) まだの方はこちらです☟ [su_button url="https://mexicoct.com/blog/tlatelolco-2" size="5" icon="icon: chevron-right" icon_color="#ffffff" desc="キオテ通信"]【メキシコ五輪の裏の真実・前編】[/su_button] メキシコの学生運動は、 日本はまだ戦時中の1942年に遡ります。 その後も、 1949年、 1952年、 1956年と 続いていきます。 68年の虐殺事件の背景は、 様々な社会的要因が重なったもの結果ですので、 一概にコレとは言えないのですが、 学生が要求していた点で、主要なものでは、 「一党による権威主義・独裁主義の排除」 そして、 「学生の権利・自由の保護」 があります。 40、50年代、 上記の改善を要求したデモが増え、 地方各地にも飛び火し、 学生以外の労働者層も“こうした動き”に賛同するようになります。 58年には、 首都で初めて大規模な衝突が起きます。 66年には、 ミチョアカン州パツクアロの所で紹介しました、 メキシコで最も古い大学の一つでもある、 サン・ニコラス大学の学生の、 高額な公共交通機関の料金を非難するデモで、 同学の学生一人が死亡、 大学はストライキに入ります。 北部のソノラ州でも、 選挙候補を巡って、 大学を攻撃する事件が起こります。 当時の世界の学生たちは、 強いて要約すれば、 40年代、50年代を支配してきた「権力」からの解放を訴えていました。 日本の大学も当時は、 学問の府として、 干渉されない「聖域」という意識が高かったようですね。 そこに警察が入ったわけです。 メキシコの大学にも同じような意識があったんです。 (たぶん今も) にも拘わらず、 ある大学に権力が入り込んだんです。 これを機に、 他の大学もストに入り、 これに対しまた暴力で応酬されます。 これによって起こった当該大学の学生たちが大規模デモを行うんですが、 これに乗じて?今度は、 共産主義を掲げる他大学の学生が混じり、 その大学関係の高校が2ヶ所攻撃されます。 そんな、 無防備な学生のデモに対して、 暴力に対する応酬が繰り返され、 雪だるま式に怒りが増幅していったのです。 しかも10月12日に世界中が注目するオリンピックが開催されるのに・・・ 焦りが募ります。 どうにかして学生運動を鎮静化しなければなりません。 もうお分かりですよね・・・ 早くは戦時中の42年ぐらいから、 20年以上に渡って、 メキシコ社会の中に、 沸々を湧き上がった不満が蓄積されて行ったんですね。 (☝どういうタイプの不満かはご想像される通りです) そこに、 68年に、 日本を含む世界各地で起こっていた学生運動が乗っかったわけです。 10月2日午後。 三文化広場で約1万人の学生が集会を行っていました。 監視が多いことから早めに集会を終えたそうです。 午後6時ごろ、 ヘリコプターから発射された照明弾を合図に、 学生の群衆に向けて乱射が始まりました。 出口は封鎖され、 逃げ惑う学生たちは、 広場の脇にある団地に命からがら逃げ込みます。 団地へは違法な「がさ入れ」が始まります。 見つかった学生は暴力を振るわれ、 殺され、 中には抵抗した家族も殺されたようです。
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