多くの“遺産”を残した北の知られざる文化、チャルチウィテスの話。
メキシコ在住15年目、
「メキシコの素顔を世界に!」
をモットーに、
メキシコ公認ツアーガイド兼ドライバーの岩﨑コウです。
チャルチウィテス。
Chalchihuitesと書きます。
たぶん、
チャルチウィテスという呼称を聞いた事がある方は、
日本人で10人もいないと思います。
(☝勝手な大げさな推測ですが・・・笑)
「チャルチウィテス」
とググっても、
ヒットするのは6件だけ。
有名なアステカ(メシカ)、マヤ、オルメカ、テオティワカンなら、
キオテでも多く書いてきましたので、
ご存知の方も多いと思いますが、
チャルチウィテスについて書くのは今回が初めて。
たぶん、
これを読んでいる同業の方からすると、
「そんなマイナーな事書いたって、誰もわかりゃしないのに、、、」
なんて思われていると思いますが、(苦笑)
そもそもキオテ通信の目的は、
ツアーを売る事ではないですからね。
「メキシコの素顔を少しでも知ってもらう事」
ですから、
タダの旅行情報サイトとは、
根本的に意図が違うんです。
で、
チャルチウィテスって何かというと、
世界5大文明の一つ、
メソアメリカ文明圏の中に存在した、
一つの文化なのです。
という事は、
アステカ(メシカ)、マヤ、オルメカ、テオティワカンなどの“有名”文化と同様に、
独立した文化を発展させつつも、
主に商業を通じて、
他の文化圏とも交易し、
崇高なメソアメリカ文明を形成した文化の一つなのです。
ではなぜ知られていないのかというと、、、
1・遠いから(苦笑)
2・有名観光地が近くに無いから(沈)
3・インスタ映えしそうなでっかいピラミッドがないから(涙)
(☝勝手な推測です)
でもですね、
有名な「アステカ人の出身地」、
と言えばその存在感も出て来るのではないでしょうか。
厳密にいえば、
アステカ人の出身地かどうかは特定できていないのですが、
一説によると、
チャルチウィテス文化の主要都市であったラ・ケマダが、
アステカ人の出身地アストラン(水の都という意味)だという見方、
または少なくてもこの文化圏ではアストラン関連の痕跡が見つかっているんです。
このチャルチウィテス文化は、
900年頃には、
他のメソアメリカ北部の文化同様放棄されてしまうのですが、
彼が向かった先というのが・・・
チチェンイッツァの所でもお話ししましたトゥラ(Tula)です。
(☝説です)
もちろんチャルチウィテス文化の全人口が900年頃に、
一斉にトゥラに向かって大移動したのではなく、
一部は現在のドゥランゴ州に留まり、
一部は今日トゥラ遺跡があるエリアに辿り着き、
後のトルテカ文化の首都トラン・ヒココティトゥラン(Tollan Xicocotitlan)、
通称トゥラ(Tula)を建設するのです。
その説の証拠になり得る事例は、
トゥラを建設したとされるチャルチウィテス文化の出身者は
通称トルテカス-チチメカスと呼ばれていて、
この集団は、
ツォンパントゥリ(骸骨の壁)や通称チャックモルと呼ばれている「半寝の像」など、
トゥラ文化に残る痕跡と彼らの習慣の特徴が類似しているのです。
数千キロも離れたユカタンのチチェンイッツァにもある
「半寝の像」チャックモル。
(実際チャックモルは別のモノを指します)
「半寝の像」はメソアメリカ各地で見られます。
トゥラ、メキシコシティのテノチティトラン、
チチェンイッツァ、
さらに遠くはエル・サルバドルでも見つかっています。
その元の元が、
このチャルチウィテス文化だという説が有力なんです。
☝☝☝メキシコシティのウェイ・テオカリ(Huey Teocalli)通称テンプロマジョール遺跡2層目から発見された「半寝の像“チャックモル”」
ようするに、
「広大なメソアメリカ文明圏で、
それだけの影響力があった」
ということですね。
チャルチウィテス文化から、
700年代にトゥラが造られ、
1000年頃にはメソアメリカ最大の都市になり、
その後1150年ごろに放棄された後、
続いてやってきたメシカ(アステカ)人が約19年に渡って住み、
1325年にメキシコ盆地の島にメシカ帝国の首都テノチティトランを造るのです。
その首都には「半寝の像」や「ツォンパントゥリ」をはじめとする
チャルチウィテス文化発祥と考えられる痕跡が、
今日までしっかりと残っているのです。
もちろんラ・ケマダにお連れすることも出来ますが、(笑)
少し遠いので、
仮に行けなくても、
有名なアステカ(メシカ)や、
メキシコシティのウェイ・テオカリ(通称テンプロマジョール)には、
そういうルーツがあるってことだけでも、
頭の片隅に入れておいていただければと思います~(笑)
#MexicoCentralTours
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