レジェンドがいなくなっても、世の中は淡々と回り続ける。
メキシコ在住15年目、
「メキシコの素顔を世界に!」
をモットーに、
メキシコ公認ツアーガイド兼ドライバーの岩﨑コウです。
レジェンドがいなくなっても、世の中は回り続ける。
☝全ての生は栄枯盛衰。全ての命あるものはいずれ同じように死を迎え、そして忘れ去られます。
メキシコ時間の午前、
衝撃的なニュースが駆け巡りました。
「サッカー界のレジェンド、ディエゴ・マラドーナ氏が死去」
30年前にキャプテン翼に憧れて、
地元のサッカー少年団でサッカーを始めたのが1990年の事。
僕らサッカー少年の間ではスーパースター中のスーパースターでした。
遊んでいたスーパーファミコンでも、
プレーヤーに「マラドーナ」と名付けていました。
ゴッドハンドや5人抜きドリブルなど、
記憶に残るプレーは86年のメキシコW杯。
両プレーともアステカスタジアムという、
世界屈指の巨大スタジアムで行われた、
対イングランドとの準決勝のことでした。
4年前に、
メキシコ歌謡界のドン、ヴィセンテ・フェルナンデスさんの、
現役最後のコンサートがこのアステカスタジアムでありました。
その時も、
「ここであのプレーがあったのね~」
と、
サッカーの試合じゃないのに妙に感慨深げになったのを思い出します。
そんな僕の中のヒーローだったマラドーナも、
もうこの世の中に居ないのです。
その一方で、
空しくもなる感情が湧いてきます。
世界中で一世を風靡したサッカー界のレジェンドであっても、
彼の死の瞬間から、
世の中の何かが変わるわけでもなく、
世界経済に影響するわけでもなく、
僕の生活に何か影響するわけではなく、
世の中は淡々と、
何事もなかったかのように機能していくのです。
これって、
例えば僕がこの直後に死んでも同じですよね。
悲しんでくれる人は家族や近い友達など、
少しいると思いますが、(苦笑)
そんな感情でさえも、
数日、
数カ月、
数年も経てば、
平常に戻っていくのです。
そんなひと握りの僕の死に悲しんでくれる人とは別に、
全く何とも感じない人、
要するに僕の生存そのものや権利や意見などというものに
全く興味がないという人達が
99.99999・・・%なんです。
世の中は、
僕なんかいなくても、
何の影響もなく機能してくのですね。
たとえ伝説のマラドーナであっても。
現代哲学では、
そう言うのを他者論と呼んでいるようです。
もしスゴイ頭のイイ人が証拠もバッチリ揃えて自信たっぷりに、
「あのメキシコの岩﨑ってヤツ、アホだよね」
と言っている人がいたら、
今度は、
「『メキシコの岩﨑ってヤツ、アホだよね』って言っているヤツ、アホだよね」
という人が必ず現れ、
またそれが否定され、
の繰り返しの現象が果てしなく続くのです。
終わりなくそれが否定され続けるのであれば、
“頭がイイ”とか、
“確たる証拠”とか、
“自信”とか、
いったい何なのって思うんです。
終いには、
「じゃあ、アホじゃないヤツってどんなヤツ?」
となります。
でもそんな正解のない真理を求めるなんて、
ムダだと僕は思ってしまいます。(苦笑)
だからきっとソクラテスさんに「岩﨑ってほんとアホ」と言われますネ。(笑)
いくら崇高な理論や確信、人だと思われるものであっても、
必ずその外には「他人」、
つまり自分のそれらに何の興味も関心も重要性も感じない、
「残酷」な現実や人達が存在することは免れない、
ということです。
話が哲学っぽくなるのでこれ以上は踏み込みませんが、(苦笑)
ん~、
つまるところ生きている間の地位、名声、承認って何なのか、
それらを目的に、
儚い人生の肥しにして生き、
一喜一憂する事への虚しさのようなものを感じてしまうのです。
☝僕はです。それが好きな人ならどうぞどうぞ、ご自由に。
無いものねだりで、
ふてくされているわけじゃないですよ?(笑)
ナチスの強制収容所で過ごした哲学者レヴィナスは、
それを「恐怖」と呼びました。
僕はまだその「恐怖」の意味を全然理解していないのですが、(苦笑)
なんと言いますか、
僕の場合は空虚感ですかね。
自分が死んでも大概の人には何も影響しないのに、
そんな影響しないものを、自分だけが気にして、
パワー、時間とおカネをつぎ込んで、
大概は最初からうまく行かず心が病む・・・
☝ハッキリ言って虚し過ぎます。(笑)
マラドーナの死から、
その後の世の中の現実は淡々と進む現実、
それにも拘わらず地位や承認にこだわる自分の虚しさ、
そんな事を考えさせらた、
というお話でした。
すみません、
メキシコと関係なく。(苦笑)
また明日~
#MexicoCentralTours
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