メキシコ中東部の大都市エル・タヒンとは・中編
メキシコ在住15年目、
「メキシコの素顔を世界に!」
をモットーに、
メキシコ公認ツアーガイド兼ドライバーの岩﨑コウです。
メキシコ中東部の大都市エル・タヒンとは・中編
前編はこちら~
【前編】エル・タヒン
さてさて、
前回の続きですが、
「球技の儀式場」の話でしたね。
なんでタヒンの球技の儀式場が注目されるのかと言うと、
その数です。
☝タヒンのそれのいい写真が無いのでカントナのボールの儀式場のものです。
確認されているだけで17です。
カントナ(プエブラにある別の遺跡)にいたっては27ともいわれています。
現代のこれだけのサッカー熱でもってさえも、
一つの都市にいくつスタジアムあります?
僕は「ゲーム」とは言わないのですが、
その理由は、
遊びではなかったからです。
生贄を伴う宗教的儀式だったのです。
この儀式の痕跡は、
オルメカ初期(紀元前1500年ごろ~)の都市、
サンロレンソの近くの山で、
この儀式に使われた「ボール」が見つかっています。
てことは、
少なくても1000年以上離れた、
しかも別々の文化で、
直線距離で400キロも離れた異なる地域の街が、
共通した儀式の形を持っていた、
ということです。
エル・タヒンのある神殿には、
建物の4隅に、
小規模の「儀式場」があります。
「遊び」のためでしたら、
そんなに必要ないですね。(苦笑)
例外もありますが、
通常は東西、
または南北に向けられて造られています。
エル・タヒンの南の球技場は、
きっちり東西に向けられています。
その東の延長線上を見て頂くと、
「山」があります。
テオティワカンの場合は、
南北の軸の北の延長線上に山がありますね。
単なる偶然でしょうか。
偶然で無いとすれば、
東西、
または南北の軸は何を意味していたのでしょう?
驚く事に、
このエル・タヒンの4つの主要建造物は、
この東の「山」に向けて造られているのです。
なぜ、
東を重要視するのか。
なぜ山を軸にするのか。
そして、なぜわざわざ大きな“ピラミッド”を築いたのか。
みなさんはどう思います?(笑)
今日このタヒン遺跡がある場所というのは、
人の定住が始まり、
社会を形成していたという最も古い痕跡は、
紀元前200年ごろのものです。
もちろんその当時から、
「さっ、タヒン市を造るからここを道にして、
ここが居住地、
ココを市場にするぞ」
とやったわけではないんです。
☝これはどこの都市(遺跡)も同じです。
最初はバハレケといって、
木の枝などを組み合わせて骨子を造り、
そこに泥を塗って造った家屋でした。
土壁ですね。
小集落ができ始めます。
現在、
私達が目にする事ができる主な巨大建造物などは、
資料によって見解は異なのですが。
600年~800年頃から建設が始まったと考えられています。
この頃には、
17の球技場の内8つが既に出来ていたと考えられています。
全盛期には街の面積は1.5㎢、
人口は資料によって大分バラつきがあるのですが、
2万人前後は居住していたと考えられています。
このタヒン、
球技の儀式場の数や、
特有で高度な建築様式を持つ宗教的建造物ピラミッドなどから、
この街の住人は他の文化に影響されないある程度の独立性を保ち、
更にはテオティワカンのように?他の文化圏からの人々も居住していた、
という可能性も考えられるようです。
タヒンは、
トトナカ文化の首都として、
1100年頃まで繁栄をつづけ、
その後首都の機能はセンポアラへと移り、
1519年にアメリカ大陸で初めてスペイン人を“迎える”のです。
そのトトナカ文化とは・・・後編で~(笑)
#MexicoCentralTours
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