「メキシコ革命」ってなに・後編
メキシコ在住15年目、
「メキシコの素顔を世界に!」
をモットーに、
メキシコ公認ツアーガイド兼ドライバーの岩﨑コウです。
「メキシコ革命」ってなに・後編
2日間連チャンの「メキシコ革命」です。
昨日の前編の続きです。
まだの方はこちら☟
【メキシコ革命・前編】キオテ通信
そんなポルフィリオ・ディアスの独裁政権の元、
世論はフランシスコ・マデロを中心に、
アンチ・ディアスに傾倒して行き、
全ての州の代表で構成された議会で、
フランシスコ・マデロを時期大統領候補にする動きがでます。
☟フランシスコ・マデロ
さらに、
マデロさんは、
「1910年の大統領再選」
と題して論評を発表。
その中で、
「ポルフィリオ・ディアスが再選されるべきでない理由」を纏め、
同年の選挙での再選を阻止しようとするのです。
この書類☟
もちろんディアスは憤慨。(笑)
そのまま選挙は行われ、
“予定通り”ディアスが勝つのですが、
これに国民が納得するわけがありません。
明らかに不正です。
これに対してマデロはデモを起こしますが、
ディアスはマデロを脅迫、
マデロはアメリカに逃げざるを得ませんでした。
そこでマデロ支持者である国民に向けて書いたのが、
有名な
プラン・デ・サンルイス
(Plan de San Luis)
というもの。
この中でディアス政権に対する武装蜂起を呼びかけます。
各地で起こっていたディアスの再選に対する抗議の中、
メキシコシティの東隣にあるプエブラにセルダン一家がありました。
その中にアキレスという人物がいて、
彼は姉のカルメンと共にこの地域の新聞記者で、
アンチ・ディアス派の主要人物だったんです。
彼はマデロとタスコ(銀の街)で密会し、
マデロからデモを拡大するように頼まれます。
しかし、
その後11月19日に、
アキレス・セルダンの家に警察の強制調査が入り、
アキレスは殺害されてしまいます。
☟アキレス・セルダンの自宅。弾痕が残ります。
この事件を受け、
マデロは翌日の1910年11月20日に武装蜂起を呼びかけるのです。
とうとう堪忍袋の緒が切れたのでした。
☝これが11月20日の革命記念日の所以です。
ここからまたもや“内戦”が始まるのです。
そしてココに、
日本でも有名な人物が登場します。
パンチョ・ビジャことフランシスコ・ヴィジャ、
エミリアノ・サパタ、
などです。
翌年1911年5月には、
北部のシウダー・フアレスで、
ディアス軍と革命軍との間で大規模な戦闘があります。
その間にメキシコシティ南部のモレロス州では、
エミリアノ・サパタ軍が次々と州内を掌握していき、
ついにモレロス州2番目の都市クアウゥラ市を占拠します。
これを受け、
ディアス政権の代表と、
革命軍の代表達はシウダー・フアレスに集まり、
ポルフィリオ・ディアス大統領の辞任を認める
シウダー・フアレス条約(Tratados De Ciudad Juarez)にサインをし、
34年にも渡って続いた“平和”と“発展”の
ポルフィリアト(ディアス政権)はその幕を閉じたのでした。
☝ココでの“平和と発展”は本来の意味のものではありません。
その4日後、
ディアスの自宅に8台の車が到着し、
ディアス一家全員と彼らの大量の荷物を車に積み込み、
鉄道の駅にむかい、
列車に乗り換えてベラクルスへ向かいます。
同月末にドイツ船籍の客船にのり、
ドイツはハンブルゴへ向かったのでした。
☟ベラクルス港出港時。もう二度とメキシコの地を踏むことはありませんでした。
その後一家はパリに移動し4年間住みます。
その間、
エジプトや地中海を旅行、
メキシコ出国から4年後の1915年の7月2日にパリで死去。
遺体はパリ市内のモンパルナス墓地に埋葬されました。
☟ここです。
34年に及ぶ独裁政権から解放されたメキシコ。
新たな大統領を決める選挙が、
マデロとディアス政権下で外務大臣だったフランシスコ・レオン
との間で行われ、
マデロが99.27%という圧倒的な得票数で勝利します。
☝この得票率もどうなんでしょうね。(苦笑)
これにより、
正式にポルフィリオ・ディアスによる超長期政権、
ある意味“発展と平和”のポルフィリアトが終わるのです。
そしてその後のメキシコはというと・・・
再び“裏切りと戦争”の時代が幕を開けようとしていました。
はたしてこれは“革命”なのか、
それともただの“内戦”なのか。
またもや混沌としたメキシコ社会の始まりです。
#MexicoCentralTours
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