タラベラ焼きの話・その2
メキシコ在住15年目、
「メキシコの素顔を世界に!」
をモットーに、
メキシコ公認ツアーガイド兼ドライバーの岩﨑コウです。
タラベラ焼きの話・その2。
その1がまだの方はこちらをどうぞ☟
【タラベラ焼き・その1】キオテ通信
その1☝の続きです。
タラベラに関する最古の記録によると、
1550年にスペインのタラベラ、セヴィジャ、
イタリアのジェノバから窯業に携わる人たちが、
ヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ)に送り込まれたそうです。
彼らは、
土着の窯業技術を、
ヨーロッパの技術と合わせていったのです。
彼らの工房には、
アフリカ系黒人奴隷たちもいたそうです。
それでなんでタラベラ=プエブラなのかというと、、、
一つは原材料の入手が比較的楽だったこと。
二つ目は、
プエブラ市の立地。
今日プエブラ市中心部がある一帯は、
メソアメリカの文化の住居跡がないんです。
一言で言えば「更地」だった。
その更地にスペイン人達が、
メキシコシティとベラクルスの中継地としてスペイン人の街プエブラ市を建設しました。
商業的にも効率が良かったのです。
1550年から30年あまり、
1580年以降には既に多くの工房がプエブラ市内にあったようです。
ところで、
今でこそ我々が目にする「タラベラ焼き」は、
殆どが食器類です。
でも、
1550年頃に送り込まれてきた人たちは、
食器を造りにやってきたわけじゃないんです。
そもそも当時というのは、
現代のように
お皿がいくつもあって、、、
ナイフとフォークがあって、、、
マグもあって、、、
というテーブルではなく、
浅めのボウルと、
スパイスの入れ物があるだけ。
じゃあ、
その窯業の人達は何をしていたのかというと、
当時はその更地にプエブラ市を建設している真っただ中。
街には住居、
大義名分だった布教のための教会や修道院は欠かせません。
そう言った場所に水を引く必要があります。
どうやって?
水道管です。
今のように鉄パイプはありませんでしたから、
陶器の水道管、というか水路だったのかも知れません。
彼らは、
水道管を造る傍ら、
食器類も造り、
徐々にそのデザイン性を高めて行ったのでした。
16世紀と言えば、
ヨーロッパはルネサンス、
17世紀以降はバロックと,
美の様式は変化して行きます。
スペインに取り入れらたものは、
半自動的に植民地であるヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ)にも持ち込まれました。
でもヨーロッパよりも少し遅れて。
例えば、
メキシコシティの大聖堂の右隣りにあるサグラリオ教会☟
ちょっと見えづらくてスミマセン。
右端の部分です。
あとはタスコの中心部にあるサンタ・プリスカ教会、
いずれもメキシコ・バロックを代表する建造物で、
そのファザード(前面)を見て頂ければわかるように、
所狭しと詰められた彫刻がバロックの特徴です☟
そんな「過剰」なまでのデザインを追及するバロック様式の影響が、
タラベラ焼きにもみられるようになります。
スズやコバルトといった高価な鉱物をふんだんに使ったのです。
スペイン系の金持ちは、
自国の高価な食器類を求めましたが、
如何せん片道2ヵ月以上も掛かります。
陶器が故、
破損も多いです
そこで、
プエブラ版「タラベラ焼き」で、
彼らの必要を賄うようになります。
名前は「タラベラ」というものの、
そのデザインはスペインのタラベラ・デ・ラ・レイナのものとは異なります。
彼らの工房では、
タラベラ出身者とジェノバ出身者が一緒に働いていたのです。
そこで技術やデザインの融合が起ります。
しかも時代はバロック期。
陶芸家たちは競うように、
ヨーロッパのそれよりも良いものをつくろうとします。
さらに、
プエブラ一帯に住む地元の人達による
独自のデザイン性を兼ね合わせていき、
今日のメキシコ独自の「タラベラ焼き」が形を成していったのです。
タラベラ焼きは食器のみならず、
病院や、
プルケなどのお酒の保管する入れ物としても使われ始めます。
あとは建物の壁用のタイルとして。
最初はキッチンなどの内壁でしたが、
次第に外壁にも使われるようになります。
☟メキシコシティ中心部の「青タイルの家」
☟グアダルーペ寺院のドーム
ともあれ、
ユネスコの情報には、
メソアメリカ時代の知識・技能・習慣との繋がりについては
既述はありませんので、
深入りせず、
ここまでにしておきます~
#MexicoCentralTours
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