メキシコを代表する作家であり女性の人権を主張したソル・フアナさん。

メキシコ在住15年目、

「メキシコの素顔を世界に!

をモットーに、

メキシコ公認ツアーガイド兼ドライバーの岩﨑コウです。

 

2日続けてカトリックに関わる内容ですが、

今日は宗教の話とういうよりも、

植民地時代の女性の人権の話です。

 

この前写真をアップしました

ソル・フアナさん

です。

スペイン語文学が好きな方でしたらご存知の方もいらっしゃると思います。

 

メキシコを代表する詩人であり、

修道女でした。

 

旧200ペソに載っている方です。

☝☝☝こちらです。

 

本名は、

フアナ・イネス・デ・アスバヘ・イ・ラミレス・デ・サンティジャナ

と言います。

 

これを読んで頂いている方の中には、

メキシコ文学にあまりご興味が無い方もいらっしゃると思いますので、

あまり突っ込んだ事は書きません。

 

なぜこの方がメキシコの重要な方かと言いますと、

彼女の詩人や作家とのしての優れた才能ももちろんそうですが、

メキシコで初めて、

女性の権利を公に主張したからです。

 

フアナさんは、

1648年または1651年に、

現在のメキシコ州の、

サン・ミゲル・ネパントゥラという村で生まれました。

日本は江戸時代初期です。

☝☝☝ココです。ポポカテペトゥル山とイスタシワトゥル山の麓です。
(グーグルマップより)

 

彼女の祖父はこの村の創立者でした。

祖父が死去した後、

1659年にメキシコシティに移住します。

移住先は母方の叔母の家で、

叔母の旦那がフアン・デ・マタという人でした。

☝☝☝ネパントゥラの入り口

☝☝☝静かな街の中

☝☝☝フアナさんの生家跡

 

ココから植民地政府の中枢へのコンタクトができ

その後の活動に大きく影響をもたらすのです。

1669年には、

ヌエバ・エスパーニャ総督にも紹介され、

総督の妻レオノラとも親友となります。

 

フアナさんは20回の授業だけでラテン語をマスターするなど、

その秀才ぶりは植民地政府でも知られるようになるのです。

 

一方で、

結婚について悩んでいた時期もあったようです。

姉のホセファは結婚して3子を儲けるものの、

その後“捨て”られます。

妹のマリアは未婚で一子を儲けました。

このような事が重なり、

“結婚”について次第に冷めるようになり、

修道女としての道を歩むことを決めます。

1667年頃の事です。

 

最初に入ったカルメリタ修道院では、

その厳格な規律も重なり、

体調を崩してしまい母親の家で15ヵ月ほど療養することになります。

 

その後1669年に、

その後彼女の詩人としての活動の舞台となる、

サン・ヘロニモ修道院に入るのです。

ここで、

現在知られるソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルス

(Sor Juara Inés de la cruz)

と命名されます。

 

この修道院は大学として今日も現存しています。

 

この修道院の立ち位置としては、

植民地政府とカトリック教会の中間ですね。

ここで、

多岐に渡るジャンルの本を書く事になるのですが、

その総数は1671年から1690年までの19年余りの間に4000を超えたそうです。

詩を筆頭に、賛辞、コミック、ソネット、クリスマスソングなどなど。

 

親しくなったヌエバ・エスパーニャ総督やその家族には、

贈り物として、ある時は私的なセレモニー用に詩を書いています。

 

彼女の功績は、

やがてスペイン本国にも伝わります。

これを“利用”して、

スペインに“逃げて”しまっていた甥のフランシスコを探してもらえるように、

スペイン国王に直訴し、

無事にフランシスコをメキシコに連れて帰ります。

 

そんな私的な事まで頼めるほどの信頼を得ていたのですね。

 

そんな順風満帆なフアナに試練が訪れます。

そしてその試練が、

さらなる彼女の功績へと導くのです。

 

1680年にフランシスコ大司教がメキシコに来るのです。

彼は超が付く保守派で、

余興的なものを一切禁止するんです。

それを“監視”するために、

各修道院に検査人を送り込むほどでした。

それだけではありません。

フランシスコの真の“恐怖心”は、

教育された女性でした。

 

彼の家に踏み入れた女性に対し、

女性が通ったスペースのタイルを張り替えるに指示します。

 

ある時は、

未亡人の女性や高齢の女性用の“家”と称し、

そこに女性を招きいれますが、

本音はそれらの女性の隔離です。

 

それだけにとどまらず、

“病院”を造るのですが、

そこには精神的に問題がある人達や娼婦を入れ、

やはり“隔離”したのです。

 

全ての女性の存在自体を蔑しんでいたんです。

そして秀才であるフアナには特に強く当たるようになります。

フアナはこれに対して書物を通じて強く異議を唱えるようになるのですが、

ついにフランシスコ大司教は、

フアナが書いた書物を異教物とし、

公式に認めて“謝罪”するか、

異端審問にかけられるか

のどちらか選択を強要します。

 

仕方なく“謝罪状”を書き、

それに彼女の血でサインをしたんです。

☝☝☝サイン

 

これを機に、

彼女の公での出版はなくなり、

それまでに読んだ書物も全て売り払うように言われます。

 

その後は1695年に死去するまでに隠れて180程の書物を読みます。

 

この事実はヨーロッパや南アメリカで大きな抗議を生むことになりました

そして、

彼女はメキシコで最初のフェメニスタ(女性の権利を主張する女性)としても、

歴史に名を残す事になったのです。

 

#MexicoCentralTours

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