観光客はなぜテオティワカンに行く?
観光客はなぜテオティワカンに行く?
☝☝☝上が現在、下が1878年にメキシコの風景画の巨匠ホセ・マリア・ベラスコ(José María Velasco Gómez)によって描かれたもの
メキシコに来た“ついで”に、
旅行者が必ずと言っていいほど訪れるテオティワカン。
その起源は紀元前200年頃まで遡ります。
ガイドブックで扱わないものはないですよね。(苦笑)
誰が創った文化なのか?
メキシコで最も調査された文化跡にも関わらず、
まだ解明されていない部分が多い文化ですね。
ちなみにテオティワカン(Teotihuacan)という名前、
これって何語かご存知でしょうか?
アステカ語?
テオティワカン語?
スペイン語?
では、創ったのは誰でしょう?
アステカ人?
メキシコ人?
テオティワカン人?
時は遡ること紀元前2500年頃。
海の向こうの日本は縄文時代、
エジプトやメソポタミアではこの少し前(といっても500年ぐらい前)に文明が興りました。
メキシコ合衆国はもちろん、
マヤもメシカもテオティワカンも無かった時代です。
人々は狩猟・採集民族(Cazadopres-recolectores)という遊牧民でした。
その約100年後に土器が発明され、
食糧の保存が可能になり、
やがて定住化が可能になり、
階級ができ、
街を形成していくのですが、
その頃はもちろんスペイン語もナワトル語も存在しません。
当時(紀元前2500年頃)は約14に分けられる言語グループが各地に存在しており、
あるものは北から南下し、
あるものはほとんど移動せずにその場にとどまりました。
紀元前200年頃に現在のテオティワカン周辺に定住した言語族を、
オトパメ(Otopameまたはプロトオトパメ)
と言います。
このグループは後に、
オトミ(Otomi)という言語に繋がるものです。
ん!?
そう、
日本でも近年取り上げられることが多くなったオトミ刺繍のオトミ(Otomi)です。
ちなみにオトミ語ではオトミをニャニュ(Hña Hñu)といいます。
一方で、
テオティワカンの名称となったのはナワトル語(Nahuatl)なのですが、
これは数百年に渡り放棄されたこの場所を、
ナワトル語のメシカ人が“発見”したためなのです。
(メシカ人とは日本でアステカ人と言われている部族です。正確にはアステカ⇒メシカ、アステカ帝国⇒メシカ帝国)
そのナワトル語の源流は、
ジュトアステカ(Yutoazteca)という言語グループで、
これは後に現代メキシコ中央部で多く話されているナワトル語をはじめ、
北西部で話されるジャキス(Yaquis)や
ウィチョレス(Huicholes)、
タラウマラ(Tarahumara)、
パパゴ(Pápago)という言語に繋がります。
名前はナワトル語だけど、
定住を始めたのはナワ族(Nahua)とは関係ないオトパメ、
でもその後地方の、
マヤとかプレペチャとかオトミとかサポテコとかミステコとか、
色んな部族が共存して成り立っていた文化がテオティワカン、
オトパメは後にオトミに繋がり、
ナワはそれとは関係ないジュトアステカが源流。
?????????、、、、、(苦笑)
ココだけ説明しても超ヤッカイですよね。(苦笑)
だからこれ以上ここでは説明しませんが、
でもこれがゴマンとあるのです!メキシコには。
だ・か・ら、
見た目だけが観光地化されてしまった悲しいテオティワカンだけを見て、
「あーキレイ―!」「スゴ~イ!」
で帰ってしまうのは
もっ・た・い・な・い!
ということです。
大部分の景観は根拠無くして想像で適当につくり変えられてしまったものなのです。
大事なのはその背景にあるもの。
これは料理にしても、
民芸品にしても、
Chepe列車(通称チワワ鉄道)にしても、
同じことが言えるのです。
インスタ映えみたいな、
価値の無い見た目だけの“良さ”だけで“空”感激するの、
そろそろ、見直してみましょ~。(笑)
残念なが
ら、そいうったものは、いずれは空しいものとなって消えてしまうと思うんです~。