古き良きプレペチャ文化の首都パツクアロ・後編
メキシコ在住15年目、
「メキシコの素顔を世界に!」
をモットーに、
メキシコ公認ツアーガイド兼ドライバーの岩﨑コウです。
前回説明できずに終わってしまったパツクアロ。
前回の続きです~
まだの方はこちら👇どうそ。
ミチョアカンのパツクアロの話・前編
パツクアロの始まりはプレペチャ帝国時代に遡ります。
その起源について正確な年代は分からないのですが、
一般的に考えられているのは1324年頃とされています。
☝☝☝ミチョアカン州と各都市のの位置関係
昨日少し説明しました、
アステカで知られるメシカ人が、
現メキシコシティ中心部がある場所にかつて存在した島に、
彼らの都を建設した時期(1325年)と同じ頃ですね。
日本は鎌倉幕府末期。
後醍醐天皇の時代です。
この街はパツクアロ湖の畔(近くに)にあるんですが、
当時この湖の周辺には3つ民族グループが住んでいたそうです。
コリングァロ(Coringuaro)
イスレニョス(Isle ñ os)
チチメカス(Chichimecas)
といいます。
(覚えなくてもいいです・笑)
この3部族はよくケンカをしていたのですが、
1300年代初期に、
チチメカ人が、
今日パツクアロがある場所で4つの石(岩?)を見つけたそうなんです。
4という数は彼らにとっては特別なものだったそうです。
4というのは、
北-南を軸として、
太陽、つまり生命が誕生する東と、
「死」が「次の生」に向けて地下の世界へと向かう西の
4方角を重要視していた、
というメソアメリカの世界観はこれまでにも度々書いてきました通りです。
加えて、
夜空に浮かぶ南十字星を敬んでいたそうです。
この頃はカトリック教はありませんでしたので、
キリストの十字ではありません。
このチチメカ人というのは、
チチメカという部族がいたわけではなく、
ケレタロやグアナファト、
サカテカスやサンルイス、
ドゥランゴ、コアウィラに跨るエリアに住んでいたいくつかの部族で、
スペイン人が名付けた総称です。
だから当時(スペイン人が来る前)は
「チチメカ人」と呼ばれていたわけではないんです。
☟☟☟このエリアの部族の総称
彼らが見つけた「4つの岩」の場所に、
彼らの宗教的建造物を建設し始めます。
これがパツクアロの始まりで、
その後初代プレペチャ帝国の皇帝タリアクリ(Tariacuri)の即位が行われ、
故にパツクアロがプレペチャ帝国の最初の首都となったのです。
皇帝タリアクリは、
このエリアを3つに分けてます。
パツクアロ(Patzcuaro)
ツィンツンツァン(Tzintzuntzan)
イウァツィオ(Ihuatzio)
です。
パツクアロを後継者(自身の息子?)に譲るのですが、
その後継者が子孫を残さずに他界したため、
権力は次第にツィンツンツァンへと移っていきます。
ココがスペイン人が来る1522年まで、
プレペチャ帝国の首都として機能するのです。
☝☝☝パツクアロ周辺
☟☟☟チンツンツァンの都市跡(遺跡)
もう一つのプレペチャの都市跡(遺跡)イウァツィオはこれです。☟☟☟
1522年に最初のスペイン人が来ます。
これに危機感を抱いたプレペチャ族は、
パツクアロに防壁を築き籠城に備えます。
プレペチャ帝国最後の皇帝はタンガンショアン2世(TanganxoanⅡ)という人ですが、
ここパツクアロで、
彼が初めてスペイン人(クリストバル)と平和的に話をします。
その4年後1526年に、
ヌニョ・デ・グスマンという悪徳スペイン人が来てですね、
プレペチャの皇帝タンガンショアンを殺した上、
地元住民に対しても様々な犯罪を行い、
パツクアロの住民は周辺の山へ逃げ込み、
街から人が消えました。
☟☟☟ヌニョ・デ・グスマン
そしてその12年後の1538年に、
司教バスコ・デ・キロガが来るのです。
彼はこうしたヌニョの犯罪行為を深刻に受け止め、
メシカ帝国を乗っ取ったエルナン・コルテスと共に裁判にかけるんです。
コルテスは“無罪”となったようですが、
ヌニョはスペインへ送還され投獄され、
そこで死ぬことになります。
☟☟☟メシカ帝国を乗っ取ったエルナン・コルテス
ココからキロガによるリーダーシップが、
地元住民を救う事になるのです。
ヌニョの悪行によって人口が減ってしまったパツクアロでしたが、
1540年頃よりパツクアロへの再移住や移住(今でいうIターン?)を促し、
“復興”を進めるのです。
だ・か・ら、
「パツクアロの街をつくった人」
と言われればこのスペイン人司教、
ヴァスコ・デ・キロガ
という人もいます。
☟☟☟バスコ・デ・キロガさん
キロガさんはこの後、
地元住民の為の病院や学校、今でいう孤児院を私費で建設するのです。
そしてその学校というのは、
メキシコで最も古いと言われる大学(1540年開校)になり、
ミチョアカン州最高学府のサン・ニコラス大学として、
今日も州都モレリア市に存在しています。
☟☟☟旧サン・ニコラス大学。今は民芸品の博物館になっています。
ちなみにサン・ニコラスという名前は、
自身のスペインの故郷で洗礼を受けた教会にちなみます。
このように、
この地域の首都をプレペチャ帝国の首都ツィンツンツァンから、
約200年ぶりにパツクアロに戻し、
1553年に“市”の称号を得ます。
この頃、
キロガさんはパツクアロで地元の人々が崇拝していた神クェラパリが祀られていた社の上に、
アメリカ最大級になったであろう、
教会を建設し始めましたが、
スペイン王室の嫉妬?から工事中止命令が入ります。
そのためこの教会は当初の予定通りに完成しなかったんですね。
当初は5つの身廊(教会を縦に走る空間)が入る予定でしたが、
結局メインの身廊1つを有するにとどまりました。
☟☟☟これです。
キロガさんは1565年に死去し、
地域の首都としての機能は、
今日の州都モレリア市へと遷都したのでした。
そんなことで、
日本ではあまり知られていない、
メキシコシティの西の地域にも、
古き良き、人間味ある歴史があるのです。
日帰りでも一泊二日でも行けますが、
グアナファト、サンミゲルや、
テキーラ方面のご旅行と合わせて頂ければ、
より効率よくなりますヨ~。(笑)
てなわけでして、
また~
#MexicoCentralTours
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