【メキシコのお札の人2】ホセ・マリア・モレロスの話。

メキシコ在住15年目、

「メキシコの素顔を世界に!

をモットーに、

メキシコ公認ツアーガイド兼ドライバーの岩﨑コウです。

 

寒い日が続いている首都メキシコシティです。

厚手のセーターを着ています。(笑)

 

独立の英雄モレロスとは。

独立の話題は今回で4回目ぐらいですね。

 

前回は、

1810年9月16日早朝に、

「スペイン人をぶっ殺そう!」と雄叫びをあげ、

独立運動(戦争)の火蓋を切り、

メキシコを独立国家に向けての歩みを始めるきっかけを作った

ミゲル・イダルゴさんが、

1811年6月に、

植民地政府当局に捕らえられ、

北部のチワワ市で同志の4人と共に処刑された所までお話ししました。

 

モレロスさんの登場により、

独立戦争は第2フェーズに入ります。

 

先にモレロスさんが、

なぜお札に載るような重要な人物なのかを言ってしまいますね。

メキシコを、

独立した立憲君主国にするために、

メキシコ(当時はまだスペインの植民地)で初めて、

独立政府軍による“憲法”を制定した人だから

なんです。

 

イダルゴさんは、

独立運動を始めた人、

モレロスさんは、

メキシコの独立実現をより明確化させた人、

と言えると思います。

(まだ独立ではありません)

 

もしモレロスさんがいなければ、

第1フェーズで活躍した

イダルゴさんやアジェンデさんの死後、

2人のリーダーを失った独立政府軍は推進力を失い、

対スペイン植民地地政府軍との戦いでは劣勢になり、

独立運動そのものが立ち消えていたかもしれません。

そうでなくても、

ズルズルと長引いたかもしれません。

その点で彼の功績というのはとても大きなものなのです。

 

モレロスさんは、

本名ホセ・マリア・テクロ・モレロス・ぺレス・イ・パボン

といいます。

イダルゴさんも長かったですが、

モレロスさんも長いですね。

 

一般的にホセ・マリア・モレロス・イ・パボン

(Jose Maria Morelos y Pavon)、

更に短くしてモレロスと呼ばれています。

 

旧ヴァジャドリ(Valladorid)、

モレリア(Morelia)市も、

彼の名前から命名されています。

メキシコシティ南部のモレロス州も彼の名前ですね。

☝☝☝モレリアとグアナファトの位置関係(グーグルマップ)

 

あとは、

50ペソのお札にも載っています。

☝☝☝この方です。

 

モレロスさんは、

1765年6月30日に、

今日のモレリア市で生まれます。

(人によっては推測とする人もいますが・・・)

25歳で牧師としてのキャリアをスタートさせます。

☝☝☝これがモレロスさん生家とされ、
現在は博物館になっています。(岩﨑撮影)

 

幼い頃より、

物資の運搬業に携わっていたようですね。

一時は、

スペインの植民地船ガレオン船でアジアから届いた物資を、

アカプルコからロバで運搬していたようです。

その為に南部の地理には詳しかったんです。

 

1797年32歳の時に、

司教になり、

モレリアの南部にある、

タマクアロ、カラクアロ、ネクペタロなどの村で、

聖職者として活動します。

☝☝☝ココです。(グーグルマップ)

 

ここでは地元の農民に、

モレリアでお客さんができるように力添えします。

 

聖職者として、

地元の住民の哀れな生活を目の当たりにします。

植民地当局やカトリック教会からの執拗な年貢の取り立ての為です。

 

そんな時に、

グアナファトのイダルゴさんとアジェンデさんの独立に向けた“陰謀”を知る事になるのです。

 

そして、

1810年10月20日に、

モレリアの東にあるチャロ(Charo)という村で、

イダルゴさんと面会し、

独立政府軍に加わります。

 

1813年11月26日、

モレロスさんはオアハカに居ました。

ここで翌年2月9日まで、

「国民の気持ち」

と題した文書を書きます。

☝☝☝建物の一角にプレートがあります。
モレロスさんはココで、
「国民の気持ち」
を書きました。

 

幾つかあるのですが、

最も大事な3つを挙げると、

 

1・北アメリカの独立宣言

2・全国民の平等宣言

3・奴隷解放宣言

 

を盛り込みます。

 

これを9月14日の独立政府軍による

「チルパンシィンゴ議会」

で正式に読み上げるんです。

☝☝☝各地の位置関係(グーグルマップ)

 

そして更に、

1814年10月22年に、

これを元にメキシコ独立政府軍最初の正式な政治的文書、

242条に及ぶ、

「アパツィンガン憲法」

をミチョアカン州アパツィンガン(上の地図左)で制定します。

 

植民地当局から指名手配されてモレロスさんは、

チルパンシィンゴ議会の同志達を助ける為に、

プエブラ州のテワカンに向かっていた途中に逮捕され、

“死刑判決”が下されます。

 

刑が執行される前に、

5回に渡って書きました

「グアダルーペ寺院」に、

最後の祈りに出向いた後、

1815年12月22日に銃殺刑に処されました。

 

マニアックな話で長くなりました。(謝)

また一人、

「もしこの人がいなければ・・・」

その後のメキシコの歴史が大きく変わっていたかもしれない、

メキシコの英雄のお話しでした。(笑)

 

モレリアやモレロス州に行った時、

お札を見るたびに、

思い出して頂ければと思います!

 

#MexicoCentralTours

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