マヤの元はオルメカと繋がっていた!?(2/2)
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調査から紀元前950年ぐらいから興ったとされています。
てことは、、、
それまでより最低600年ぐらい、
マヤの巨大都市の年表が早まるということ。
だから「大発見」なのです。
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メキシコ在住16年目、
「メキシコの素顔を世界に!」をモットーに、
複雑で広大なメキシコを【お得】で【楽】で【濃厚】な完全プライベート日本語ツアーで、 いつかまた戻ってきたくなるメキシコ旅行を提供している、 メキシコ観光省認定日本語ツアーガイド兼ドライバーの岩﨑コウです。 メキシコの数々の遺跡からグルメ、地方の見所、そしてメキシコの雄大な山まで、 尽きる事のないメキシコの魅力をお得にご案内しています。 今日も呑気にメキシコから書いています~(笑)マヤ人が造った都市だけど、そのベースはオルメカだった。

アグァダ・フェニックスで見つかった「赤い床」はココ👆オルメカのサンロレンソの習慣だった。
アグァダ・フェニックスの発見
前回の続きです~👇 https://mexicoct.com/blog/protomaya/ それで去年でしたかね、 日本の考古学者も参加するプロジェクトで、 アグァア・フェニックスが「マヤの最古の建造物」で、 マヤの年表をグッと押し上げるかも知れないという話がでました。 それまでは、 カンペチェのカラクムルで紀元前405年頃から少しずつ石碑などが造られたり、 カラクムルの南40キロにあるエル・ミラドール(El Mirador)が起源前350年頃に興ったり、 その更に南にティカルが同じような年代に興り、 紀元を跨いでカラクムルと対立するようになっていました。 そんな時に現れたのがアグァダ・フェニックスの大発見。(笑) ココ👇ですよ~。
アグァダ・フェニックスはマヤの都市じゃない説!?
がぁ、(苦笑) これには裏話があるんです。 マヤファンはあまり”認めたくない”裏話?(苦笑) というのもですね、 確かにマヤ圏内にある場所で、 マヤ族によって建造されたようではあるんですが、 これが完全に「マヤの都市」と言えるかどうかは「???」なのです。 というのも、 いくつものオルメカ特有の要素が、 この遺跡から見つかっているんですね~。 どういうこと? マヤがパクった。(笑) 言葉は悪いですが、 マヤはお隣の文化から模倣するのが得意だったようです。 どういったオルメカの特徴が見つかったのかっていうと・・・ 一つは「赤色の地面」。 地面というか床というのでしょうか。 これはオルメカの最初の都市、 ベラクルス州のサン・ロレンソという場所でも見つかっているのです。 「でも」っていっても、 サン・ロレンソの方が先なんですけどね。 サン・ロレンソが興ったのは紀元前1800年頃、 紀元前1500年頃から栄え、 当時のエリート層の建造物からこの「赤い床」が見つかっています。 あとは陶器。オルメカの陶器は繊細です。 そして石。 石と言っても緑色のヒスイなど。 緑色というのは、 オルメカの人々にとってはとっては「作物」を意味する色で、 いろんな色があるヒスイやその他の鉱石の中でも、 「緑色の石」が大変重宝されていたのです。 紀元前950年頃っていうと、、、 ちょうどオルメカはラ・ヴェンタが栄えて時期ですね。 👇ここ [su_gmap address="La venta"] そんな物的証拠から、 アグァダ・フェニックスはマヤ人によって造られたものの、 その要素は実はオルメカ文化を模したものだった、 という事が推測できるんですね~。(驚) はい、それで、 場所をアグァダ・フェニックスから南西に330キロの太平洋岸に、 時代を400年ぐらい進めます。 👇この辺 [su_gmap address="Soconusco chiapas"] ソコヌスコス地方と呼ばれていて、 1897年に、 日本からの最初の移民団が入植したエリアです。 この時代紀元前600年ぐらいからですね、 文化の「バトンタッチ」が続きます。 数百年掛けて。 オルメカからバトンを引き継ぐのは「イツメーニョ」、 または「ミヘ・ソケ」と呼ばれる文化。イツメーニョ文化の重要性
実はこの文化ってこれまでにはある意味、 歴史上になかった、 或いは存在が薄かったのですが、 この頃その重要性が指摘されてきているんです。 簡単にいうと、 オルメカからマヤの文化要素の形成が始まる間、 紀元前600年ぐらい~同200年ぐらいに渡って、 様々のオルメカの要素を引き継ぎ、 それをマヤに引き渡したという文化で御座います。 オルメカとマヤの架け橋的な役割をした文化ですね。 この時代に、 有名な「マヤ暦と文字」の原型ができるのです。 正確にいうと、 イツメーニョの文字はマヤの文字とは異なるのですが、 これらもマヤがイツメーニョからパクった、のです。(笑) パクったら今度はマヤ式にアレンジを繰り返し、 皆さんもご存知のマヤ暦やマヤの文字に発展していったんですね~。 ちなみにこのエリアで見つかっている最古の文字とうのは、 紀元前500~600年頃のもの。 繰り返しますがこの段階ではマヤの文字ではありません。 暦や文字の他に、 イツメーニョがマヤに引き渡したもの。 それはコレ☟です。 ん!?なんじゃこりゃと思われたでしょう。(苦笑) でもマヤの遺跡に行かれたことがある方ならご存知のはず。 たぶん「雨の神」として紹介されたと思います。 Chaac神です。 これも裏話があって、(苦笑) 正確には「嵐の神」、 もっと言えばもともとは「トウモロコシ」の神として、 イツメーニョの人達によって崇められていたのです。 雨、 というか嵐を「コントロール」するための神といった方が変わりやすいです。 トウモロコシを得るにも、 水がなかったら育ちませんからね。 このイツメーニョの宗教観をマヤが引き継ぎ、 今日も各地のマヤの都市跡(遺跡)でChaac神として見る事ができわけです~。 イサパやチアパ・デ・コルソ、 カミナリフジュ遺跡などの主要なイツメーニョの都市は、 後にマヤの都市へと変わって行きます。 その証拠に、 これらの都市跡を掘って行くとですね、 マヤとは異なるイツメーニョの痕跡が出てくる層が出てくるのです。 謎多き「イツメーニョ」、 または「ミヘ・ソケ」文化。 テワンテペック地峡を横断するように形成された文化圏。 その後期にはメキシコ中央部ではテオティワカンが、 そしてソコヌスコス地方一帯ではマヤが台頭して来ます。 メソアメリカ時代は、 プレクラシコ期が終わりかけ、 テオティワカンやマヤ前期のカラクムルやティカル、その後のパレンケなど、 「発展」目覚ましいクラシコ期の幕開けへと繋がる局面を迎えるのでした~。 [su_button url="https://mexicoct.com/category/blog/" style="flat" background="#ce608d" size="5" radius="round" icon="icon: chevron-right" text_shadow="0px 0px 0px #000000" desc="バックナンバーはこちら!"]メキシコ発【キオテ通信】[/su_button] 一番下に関連記事が表示されるようになりました~ 画面を一番下👇👇👇までスクロール~ 【お一人のお客様同士のライドシェア】 [su_button url="https://mexicoct.com/rideshare/" style="flat" background="#ce608d" size="5" radius="round" icon="icon: chevron-right" text_shadow="0px 0px 0px #000000" desc=""]お得なキオテのライドシェア詳細はこちら[/su_button]SNSにてメキシコの写真と動画を多数アップしています!
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