【お札の人物1・続き3】ミゲル・イダルゴの戦いと最期

メキシコ在住15年目、

「メキシコの素顔を世界に!

をモットーに、

メキシコ公認ツアーガイド兼ドライバーの岩﨑コウです。

 

今日のメキシコシティは晴れ。

先ほど市場に買い出しに行ってきたのですが、

気温は22度、

湿度も低く、

とても過ごしやすい気候です。

 

今日はちょっと濃厚で難しいかもしれませんが、

もしご興味ありましたら以下お読みください~(笑)

 

ミゲル・イダルゴの戦いと最期

 

今でこそ、

メキシコ国内の観光地として、

サンミゲルと並び超有名な場所グアナファト。

でもそこには血生臭い歴史があるのですよ・・・

 

グアナファトは、

スペインの入植以降に銀脈が発見され、

その後銀の採掘地として、

サカテカス、サン・ルイス・ポトシなどと並び、

「銀の道」

を形成した重要拠点で、

スペイン人も数千人住んでいたんです。

 

イダルゴと同志のアジェンデが率いる、

武装した独立派の群衆はサンミゲルを出発、

セラジャ(今はホンダの工場があります)を経由した後、

9月28日にグアナファトに着きます。

そしてグアナファトの住民であったスペイン人達を襲います。

襲われたスペイン人達は、

命からがら穀物庫(アロンディガ・デ・グラナディタス)に逃げ込みます。

☝☝☝これです。(岩﨑撮影)

 

ガイドブックにも出ていると思いますが、

グアナファトには展望台があります。

そこにおっきな像があるんですが、

ココは通称「ピピラの丘」と呼ばれています。

この像の人をピピラというのですが、

この人は若い工夫で、

本名フアン・ホセと言います。

☝☝☝この人です。(岩﨑撮影)

☝☝☝展望台からの景色(岩﨑撮影)

 

“伝説”によると、

スペイン人が立て籠もった食糧庫の扉を焼き払うために、

浴びせられる銃弾の雨を顧みずにとった勇敢な行動が英雄視されています。

でも、

これはちょっと胡散臭い話なんです。(苦笑)

 

このグアナファトでの戦闘は4日にも及び、

民間人の死者は3000人にも及んだそうです。

 

その後イダルゴは、

ヴァジャドリ(現モレリア市)とグアナファト市にそれぞれ、

独立軍政府を置き、

12月15日には西のグアダラハラ市で、

植民地ヌエバ・エスパーニャからの“独立宣言”をします。

☝☝☝各都市の位置関係
メキシコシティーグアダラハラ間は500キロ程です。
(グーグルマップより)

 

“独立宣言”と言いましても、

スペイン側の降伏を見届けたわけではなく、

その後も10年に渡って戦闘は続きます。

少なくても2021年の正式な“独立”までに、

更に2度、“独立”を盛り込んだ宣言がされます。

 

10月25日に、

ヴァジャドリ(現モレリア市)近郊のチャロという村で、

ホセ・マリア・モレロスという、

新たな同志と出会います。

モレロスの出現により、

独立運動は第2ステージへと入ります。

 

モレロスは、

イダルゴやアジェンデたちと並び、

独立の英雄として現在も称えられているのです。

その為に50ペソ札や、

新200ペソ札にも載っているんです。

 

☝☝☝この人

 

更に、モレリア市は彼の出生地(推測)ということで、

独立後の1828年に

ヴァジャドリ(Valladrid)から、

彼の名をとって

モレリア(Morelia)に改名されているんです。

メキシコシティの南にもモレロス州とありますが、

彼の名前から命名されています。

 

モレロスについてはまた後日書きますね~。

 

さてさて、

イダルゴが率いる独立派軍は、

その後、

後にメキシコ帝国初代皇帝となるイトゥルビデがいる群と戦って勝利し、

メキシコシティへと向かいます。

 

当時、

メキシコシティはほぼほぼガードが薄く、

攻め込むには絶好のチャンスでした。

でもイダルゴは何を思ったか、

突撃を断念します。

この事が原因で仲間の反感を買ってしまいます。

 

その後、

メキシコシティ南西部のサンヘロニモで、

サン・ルイス・ポトシ率いるスペイン軍と戦って敗れて、

グアダラハラ方面へ逃げます。

ちなみにこのサン・ルイス・ポトシは、

現在サン・ルイス・ポトシ州と同州都の名前となっているんです。

☝☝☝この州です。(グーグルマップより)

 

一方で、

スペイン人と言っても、

全員が敵だったわけではなく、

中には独立派に支援したグループもあったんですね。

彼らを、

ロス・グアダルーペス

(グアダルーペ達)

と呼んでいました。

グアダルーペって、

最近4回ぐらいに渡って書きました、

あの「褐色の聖母」です。

 

独立派軍は二手に分かれます。

一つはアメリカに援助を求めるグループ、

もう一つはヴァジャドリ(現モレリア市)があるミチョアカン一帯に残るグループです。

 

1811年、

イダルゴは同志であるアジェンデ、アルダマ、ヒメネスと共に北へ向けて出発し、

チワワ州に到着しますが、

そこで植民地当局に捕らえられてしまいます。

☝☝☝チワワ州チワワ市

 

6月26日に3人の同志が、

7月30日にイダルゴが、

それぞれ銃殺されました。

☝☝☝イダルゴが銃殺された現場のプレート

 

4人の遺体は、

チワワ市のサン・フランシスコ・デ・アシス教会に埋められましたが、

頭部は切断され、

グアナファトの食糧庫アロンディガ・デ・グラナディタスの4隅にそれぞれ“籠”に入れられ

その後独立戦争が終わるまでの10年に渡って晒されたのでした。

☝☝☝籠です(イメージです/ツイッターより)

 

今でもアロンディガ・デ・グラナディタスの4隅の上部には、

その4人の英雄の名前が書かれたプレートが埋め込まれています。

それはこうした歴史がある為です。

☝☝☝これです(この角にはHidalgoと書かれています/岩﨑撮影)

 

4人の遺体は1823年に掘り起こされ、

グアナファトで晒されていた頭部と共に、

メキシコシティのメトロポリタン大聖堂に安置されます。

1925年から独立記念塔に安置されています。

☝☝☝ココです

 

今はキレイな街並みと、

宝石箱をひっくり返したよう、

と形容される夜景で有名なグアナファトですが、

このような血生臭い歴史があるんですね~。

 

そして、

無防備の民間人への襲撃の賛否論は置いておくとしまして、

その襲撃がなければ、

その後の独立に向けたシナリオも、

また違ったものになっていたことでしょう。

 

次回は、

独立戦争の第2ステージと、

もう一人の英雄であり、

お札に載っている人物ホセ・マリア・モレロスについて書きます~(笑)

 

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