かつて同じ船に乗った2人のスペイン人の運命の分かれ目・前編

👆コスメルの西岸とは違い、東岸は波が荒い。この海に1518年と19年にスペイン船が現れます。
スペイン人とマヤ人の共存
先日のコスメルの話に繋がります。 コスメルに続いてコレを書こうと思ったのにはワケがあるんです。 いえいえ、いつもワケあって毎日書いていますが、(苦笑) 今回はドラマが凄いんです。 これを読み終わった後に、 皆さんはどう思われるでしょう。 僕は自分を彼らに置き換えて考えてみたのですが、 とても考えさせられたのです。 先に言ってしまうと、 スペイン人とマヤ人の“共存”の話なのですが、 メキシコで布教の名の元に行われたスペイン人の愚行、 これまでにも“当時の”スペイン人の悪口をたくさん書いてきました。(苦笑) でも、 ここでは一旦、 その愚かな“スペイン人”という固有名詞を脇に置いておいてですね、 “一外国人”として捉えてみたいのです。 僕もメキシコに一外国人として住んでいるという事もあり。 片やマヤは、 メソアメリカ内では他の異なる文化の人達との交易はあったものの、 白い肌、青い目、人によっては金髪?のヨーロッパ人を初めて“見た”のです。 その時のインパクトはどんなものだったのでしょうね。 今でこそ肌や目、髪の色が違うガイジンなんて 日本でも当たり前?ですが、 初めて外の人を見た時、 どんな感情が湧いたんでしょう~。 あ、ちなみに 僕は“最”とか“初”が好きでして、 相当マニアックと知りつつもこれを書いています。 退屈してしまいそうな方はまた明日訪問下さいネ。(苦笑) 明日は明日でまたマニアックなメキシコの音楽ですが。(笑)メキシコで起こった「初」
てなわけで今回は、 ヨーロッパ人とメソアメリカ(今のメキシコ)の人々との“初対面”、“初共存”について書いています。 もう一度言いますが、“初”です。(笑) 中でも、 主人公はヘロニモとゴンサロという二人のスペイン人です。 アメリカ大陸で“初”と書きたいところですが、 実はこの“事件”に先だって、 1500年にはポルトガル隊がブラジルに到達しています。 (☝だからブラジルだけポルトガル語) パナマでは現地の住民とスペイン人は接触がありました。 だからアメリカ大陸で“初”ではありません。 それでこのマヤの人々とスペイン人の接触、 もしこれがなかったら、 スペイン人によるメソアメリカ(メキシコ)の植民地化は無かった!? いえいえ遅かれ早かれ植民地化はされていたでしょう。 でも少なくてももっと遅れていた可能性はあります。 それだけインパクトが強い“事件”なのです。 で、何が起こったのかというと・・・ 今から遡る事510年前、 1511年に、 今のジャマイカ辺りで7日間も続く大嵐で、 スペイン船サンタ・ルシア号が遭難したんです。 この船と言うのはコロンビアのダリエンを出て、 現在のドミニカに向かっていたと思われます。 なんでパナマ一帯にいたのかと言うと・・・スペイン人がパナマ一帯にいたワケ
皆さんもご存知の、 ヨーロッパ人として初めてアメリカ大陸を“見た”というコロンブス。 彼の息子ディエゴ・コロンブスは、 当時スペインのラ・アンティジャの市長だったのです。 彼は街を発展させるためには、 当時行われていた対アフリカ奴隷貿易では不十分と考え、 既に到達していた新大陸のパナマから、 現地住民を奴隷としてスペインに持ち込もうと考えたのです。 が、 未開の土地で食料がなく苦戦します。 そしてスペイン人の間でも不和が生じてきます。 そんな中、 解決策の模索と事態の報告を兼ねて、 スペイン人の街があった現在のドミニカの首都サント・ドミンゴに向かったわけです。 👇この航路
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