初めて民主化を目指したメキシコの大統領ベニト・フアレスさんとは/その3
メキシコ在住15年目、
「メキシコの素顔を世界に!」
をモットーに、
メキシコ公認ツアーガイド兼ドライバーの岩﨑コウです。
初めて民主化を目指したメキシコの大統領ベニート・フアレスさんとは/その3
メキシコ史、
「もう面倒くさい!」
という方、
また明日覗いてくださいネ。(苦笑)
その1、その2はこちら☟
【その1】ベニト・フアレス 【その2】ベニト・フアレス
保守派がザワザワする中、
1861年6月11日に、
議会は正式にベニト・フアレスの大統領就任を布告します。
新フアレス政権は、
フランス、イギリスなどに
にこの承認を求め認められます。
☝ここにスペインが入っていないのは、
メキシコ政府は保守派(スペインはカトリックの国ですからね)であるべきという考えと、
もともとメキシコの植民地化の復活を企んでいたからです。
このころ、
メキシコの財政は切迫していました。
というのも、
1810年から11年も続いた独立戦争の混乱から、
独立国として新な歩みを始めたメキシコ情勢は安定せず、
大統領も頻繁に変わる事態となっていました。
それもあり、
戦争が続きます。
1838年にはフランスと「ケーキ戦争」、
1847年までにはアメリカと戦争をしています。
1859年には今回の「3年戦争」です。
という状況で、
メキシコ政府にカネがあるわけがありません。
破産状態だったわけです。
ベニト・フアレスは、
国外への借金返済を禁止し、
国内財政の安定化を優先します。
しかし、
それに追い打ちを掛けるように、
保守派のリーダー格ミゲル・ミラモンが、
イギリスの使節を襲い、
大金を盗み取るのです。
さらに、
フランスにスイスの銀行経由で大金を借ります。
これにイギリスが怒らないわけがありません。
これにより、
イギリスは保守派、リベラル派に関わらず、
メキシコとの国交を断絶。
もちろん盗られた大金の返済を要求します。
フランスにも、
この☝ミラモンがつくった借金と、
「ケーキ戦争」の借金があります。
スペインにも、
1853年に起きた暴動の賠償金があります。
というわけで、
メキシコを“のっとる”ための口実が“揃った”んですね。
“揃った”というのよりも、
“揃えた”といった方が正しいのかもしれません。
というのも、
ヨーロッパにはまだ、
アメリカ大陸“のっとり”という下心が燻っていたんです。
イギリスとフランスは、
スペインに
「これが最後のチャンスだ」
と誘い、
1861年に英・仏・西の三国同盟「トゥリパルティア」を結び、
ロンドンでメキシコ“のっとり”計画を練り、
同年12月~翌1月にかけてベラクルス沖に終結するのです。
この事態を受け、
ベニト・フアレスは、
外国への借金返済禁止令を解除し、
三国を刺激しないようにします。
そこでですね、
☝この3国のこうした動きの裏には、
あろうことか数人の“メキシコ人”が動いていたんです。
それらの“メキシコ人”自身が、
英・仏・西の君主に駆け寄り、
ヨーロッパの君主による
第二次メキシコ帝国の設立を懇願していました。
その“メキシコ人”というのが、
自分達の特権と富を剥奪しうるベニト・フアレスを敵視する裕福な保守派の連中です。
夫婦喧嘩で家出をした男が別の女性に、
「もうウチの妻がどうしようもなくて別れるから、
追い出すために手を貸して。
その後にその僕の家に一緒に住もう。
僕の財産も君にあげるからさ。」
と言っているのと同じです。
このどうしようもない男が、
ヨーロッパ諸国に駆け寄ったリッチな保守派のメキシコ人です。(苦苦笑)
ようは、
ベニト・フアレスの敵という保守派の人達は、
自分達の「特権と富」をどうしても守りたかっただけなんです。
それをベニト・フアレスは、
レフォルマ法で「改変」し民主化した、
という事ですね。
だ・か・ら、
「建国の父」と言われています。
一方で、
フアレス政権にも余裕はありません。
☝この動きのせいで、
またもや外国がメキシコに押し入るきっかけを与えてしまい、
“ガイジン”による、
第2次メキシコ帝国の発足に向かうこととなるのです。
続きは次回に~
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