メキシコの日系人の知られざる過去。そこには意外な人間関係が。(2/2)
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今日も呑気にメキシコから書いています~(笑)
メキシコの日系人の知られざる過去。そこには意外な人間関係が。(2/2)
(出典:Relatos e Historia en Mexico)
なんでメキシコに?
そもそもなんでメキシコなのかってところで終わりました。
榎本さんはフランス滞在中に、
1862年、63年にメキシコに侵攻を経験したフランス軍高官と知り合います。
その中に上記のジュール・ブリュネという人がいたんです。
実はこの人、
日本で1868年の戊辰戦争に関わっているんですが、
日本行きの前に、
1863年のフランス軍の3度目のメキシコ侵略の際に、
フランス軍の指揮を執っているんです。
だからメキシコの事をよく知っていたんですね。
榎本さんは優れた軍人である彼と友情を築き、
日本の兵力強化のために日本へ呼び寄せたのでした。
だからメキシコが選択肢の中に入ったんです。
榎本武揚の思惑
それで今度は、
なんで榎本さんは外国に移民を送りたかったのかってこと。
これも実は知っている人は意外と少ない?
蝦夷共和国。
初代総督が榎本さんの独立した“国”ですね。
榎本さん率いる共和国樹立支持者たちは独立を「宣言」するも、
正式には独立国家としては認められなかったとか。
共和国ってのは、
彼の周りの人が付けたようですが、
戊辰戦争で負けた後、
榎本さんを含む幕府側の人達は江戸を脱出し、
北海道は函館に向かいます。
北海道で独立した国家を立ち上げようとしたんです。
この新国家の樹立の目的って言うのは、
実はハッキリしていないようですね。
表向きは、
対ロシアの警備とか北海道の開拓と書かれていたりしますが、
本当のところは・・・なぜなんでしょう。
この点メキシコの資料によると、
フランスで感銘を受けた哲学者シャルル・フーリエの思想と、
武士の思想に共通点を見出し、
それを受け継ぐ新国家(日本)を作りたい、
という野望があったと書かれています。
戊辰戦争での敗北後とメキシコ
蝦夷での立て籠もりのあと、
政府軍の黒田清隆に降伏し、
数年の拘束を経て、
彼の才能を買われて明治新政府の要職に就くことができたのです。
この後、
榎本さんが連れてきたフランス人の戦友ジュール・ブリュネは、
フランスに強制送還処分となります。
その後、榎本さんは明治政府内で地位を上げ、
1891年に在日メキシコ大使と一等書記官に出会います。
自身の「野望」は忘れぬまま。
そこでかねてから夢であった外国での「日本」の樹立計画を話すのです。
その一つが戦友ブリュネが語っていたあのメキシコで。
当時メキシコは、
ポルフィリオ・ディアスの長期政権下。
ディアスの経済成長政策の一環で、
外国移民の奨励と利害と一致し話は進みます。
メキシコ現地調査の誤算
それから約6年にも渡って、
調査団を何度か派遣し、
メキシコ国内での入植地の“調査”を行ったようです。
がぁ、
これが思わぬ事態へと進む要因となってしまいます。
1897年3月24日、
36年の有志で集めた36人を乗せた船は横浜を出航、
5月10日にチアパス州San Benitoに入港します。
👇ここ
一行は“調査済み”であった入植地エスクイントゥラに向かうのです。
👇ここ
しかし、様子がおかしくなります。
過酷な暑さと大雨、マラリアなどの感染症、
そして資金不足、
更には書物で十分に知識を得たはずのコーヒーが全く育ちません。
そんな見当違いの状況に、
入植者たちは助けを求め首都へ1200キロの道のりを徒歩で脱出したのでした。
そこで外交官の室田義文に出会い、食料などを援助してもらうも、
契約尊守を理由にチアパスに戻るように指示されるのです。
このチアパスの調査にあたった一人に草門とらじさんという人がいたそうです。
彼はこの「怠慢」を移住者に対して土下座して謝ったとか。
資金調達と事態の改善を約束し、
日本は戻ったのですが結局その約束は果たさられぬまま自害したとか。
そんなことで、
その後どの程度までコーヒー事業が伸びたのかわかりませんが、
現在も彼らの子孫がこの地域に住んでいるのです。
現にYamamoto、Komukai、Ootaという苗字が多いのです。
マヤの原点に近い場所
このエリアは、
メキシコ最初の文化オルメカの前身と思われるモカジャ(Mokaya)という人々が住んでいたエリア。
最古の「ボールの儀式場」が見つかっていて、
推定紀元前3000年頃ごろのものとされています。
現在のメキシコの礎となる文化が産声を上げていた時期である場所。
歴史にご興味がある方はぜひ行ってみて下さい~
メキシコの日系人社会の始まりの話でした。
メキシコとの意外な繋がり、
少しでもお分かりいただけましたでしょうか。
ではではー
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