在メキシコ日本人移民の戦争の記憶。日本戦争をしていないメキシコで起こっていたこととは。
メキシコ旅行やメキシコ生活、海外旅行について、
ほぼ毎日行き当たりばったりに、
現地在住の視点で書きながらも、
ゆるすぎるメキシコブログ【キオテ通信】です。
成田から直行便でたったの12時間、
アメリカ・カナダの各都市から5時間以内、
春休み旅行、ゴールデンウィーク、夏休み、そして年末年始、
2023年の海外旅行は「未知の国メキシコ」への旅行はいかがでしょう。
42年に、
メキシコ湾で立て続けに6のメキシコ船籍タンカーが、
ドイツ軍の潜水艦に攻撃されたのを受け、
メキシコは枢軸国に対して宣戦布告したのでした。
実際メキシコ空軍は、
エスクアドロン201という飛行機部隊をフィリピンに派遣していますが、
日本攻撃に参戦する前に終戦を迎えます。
この無実の日本人に対する非人道的な扱いについてメキシコ政府は、
「ペルーの収容所よりマシだった」
ことを理由に謝罪はしていません。
無論、
そんな事実はメキシコの教科書に書かれている訳はなく、
戦後の世代は当時の様子を知る由もありません。
メキシコにとって、
戦争って独立戦争(1810)や、
アメリカ軍の侵略(1847)
フランス軍の侵略(1839/62)、
など国に大きな影響を及ぼした戦争を経験してきているせいか、
直接的な被害を受けな語った太平洋戦争は、
ヒロシマ・ナガサキぐらいしか、
歴史の授業で勉強しないようです。
昨日の終戦記念日についても、
ニュースになることはありません。
いつかチャンスがあれば、
当時の様子を知る方に話を聞いてみたいです。
また明日~
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メキシコ在住17年目のメキシコガイド兼ドライバーが、
複雑で広大なメキシコを、 【お得】で【楽】で【濃厚】な完全プライベート日本語ツアーで、 数々の遺跡からグルメ、各地の見所、そして雄大なメキシコの山まで、 尽きる事のないメキシコの魅力をご案内しております。 今日も呑気にメキシコから書いています~在メキシコ日本人移民の戦争の記憶。

76回目の終戦記念日
16年前、 僕は13歳で中学1年でした。 僕の出身は静岡県掛川市という所なんですが、 小学生の時問題児だった僕は両親の勧めもあり、(苦笑) 親元から離れて長野県の南端にある売木村という小さな村に移住することにしたのでした。 今はもっと少ないと思いますが、 村民は当時で800人ぐらいの小さな村。 長野県で2番目に小さな村です。 ちょうどその年は戦後50年で、 村のお年寄りに集まってもらい、 戦時中の食事を一緒に作った記憶があります。 何を作ったのかは思い出せませんが、 たしか団子のようなものが入った味噌汁のようなものを食べたような? 村への空襲はありませんでしたが、 食生活は大きく変わったと聞いた記憶はあります。 その僅か26年後、 僕はメキシコに生活基盤を移し、 メキシコのガイドをしているとは 夢にも思いませんでした。(苦笑) 人生、 どこで何がどう変わるのかって、 ホントわかりませんね~。 今から26年後、 交通事故かなんかで死ななければ、 65歳になっているでしょう。(笑) もう年金を貰える年です。(苦笑)初めての日本人移民団
そんな僕の人生の変化なんてまだ小さい方だと思います。 メキシコには今、 11000人ぐらいの日本人がいるみたいですが、 最初の移民団というのは36人でした。 いえ、 たしか一人はサンフランシスコで下船して、 もう一人はアカプルコで病死していると思いますので、 最終的にメキシコに着いたのは34人です。 今みたいに飛行で12時間で着いてしまうのではなく、 当時は船。 1897年の3月末に横浜を出航した一行は、 同年5月中ごろにチアパスはエスクイントゥラに到着したのでした。 ☟ここ [su_gmap address="Escuintla, Chis"] これが日本人移民団の最初です。 この日本人移民の話は、 また別に書きますネ。 https://mexicoct.com/blog/enomoto-1/日本とメキシコの思惑が一致
当時はポルフィリオ・ディアス政権下。 メキシコでは独裁者として語り継がれる大統領なんですが、 彼は当時、 イイ意味でのメキシコの近代化を進めていたんです。 メキシコシティ中心部にある、 ベジャス・アルテス劇場や、 郵便局、 独立記念塔などいう、 現在もメキシコを代表する建造物は、 彼の任期中に作られました。 外資を引っ張り、 メキシコを“ある意味”近代国家に近づけたのです。 その一環で、 当時人口増加問題を抱えていた日本と、 ディアス政権の思惑が一致して、 日本人移民が始まったのです。 日系社会と言えばブラジルやペルーが有名ですが、 メキシコはそれより前から日本人移民が始まったのです。太平洋戦争中の日本-メキシコの関係
そんな日本人がメキシコの地に移民して40年余り。 太平洋戦争が始まります。 当時、 日本人はメキシコに帰化した人も含めて約6000人いました。 戦争勃発と同時に、 彼らは8日以内に家を離れなければならず、 プエブラやクエルナバカ、グアダラハラ、そしてメキシコシティの収容所に送られました。 預金も月に500ペソ(5000円ほど)しか出せず、 身分証や帰化証明も剥奪され、 集会も禁止。 スパイ容疑が欠けられれば刑務所行きです。 開戦から3週間足らずで生活が根底から変わってしまった在メキシコ日本人。 急な移動命令により十分な衣服を持たず、 冬の長距離の移動により子供1人、高齢者2人が亡くなっています。 でも、 日本てメキシコと戦争していないのになぜ? アメリカのプレッシャーです。 メディア戦略もあり、 メキシコ国民の間には、 「アンチ日本」ムードが活発化します。
SNSにてメキシコの写真と動画を多数アップしています!
#MexicoCompleteTravel
20年近くメキシコの社会にどっぷり浸かり生活している私から見た「メキシコの素顔」を、文章、写真、動画でご紹介しております。 ぜひフォローをお願いします!View this post on Instagram