地形を利用した防衛都市パレンケ。
メキシコ在住15年目、
「メキシコの素顔を世界に!」
をモットーに、
メキシコ旅行の政府公認ツアーガイド兼ドライバーをしています岩﨑コウです。
今日もメキシコから書いています~
パレンケ(Palenque)。
世界遺産でもあり、
ここはチチェンイッツァについで?
知名度はあるかもしれません。(推測)
でも、
年代は全然異なりますので、
同じマヤはマヤでも別別の都市としてお考え下さい。
パレンケは、
先日少しご紹介したカラクムルから、
南西に直線距離で240kmにあります。
☝☝☝ここです。
(Google Mapsより)
パレンケという名前は、
近くにあるパレンケ村から命名されています。
元々地元の言語チョル(Chol)語では、
Otulum(オトゥルン)と呼ばれていて、
直訳すると“要塞化された家”
という意味です。
他にも3通り程呼び名があるようですが、
ココでは割愛しますネ。
チョル語というのは、
先日少し書きました、
マヤファミリーという
大きな木の話で、
いわゆるマヤ語の、
従兄弟にあたる言語です。
現在もチアパスとタバスコ州の一部の地域で話されている言語です。
このパレンケ(またはオトゥルン)は、
カンペチェ州のカラクムル、
隣国グアテマラのティカルと並び、
マヤ前期でもっとも重要な都市の一つでした。
AD500年頃から900年頃まで栄えたとされており、
その中でも、
パカル(Pakal)という王が絶大な力を持っていたとされています。
このパカル王期が615年~683年とされ、
パレンケの都市跡(遺跡)の重要な宗教的建造物の一つである
las inscripciones
はこの間に建造されたと考えられており、
事実その内部で、
1952年にパカル王の墓が発見されています。
この墓は、
上記の建造物の“秘密の階段”を下った所で見つかりました。
冒頭のチョル(Chol)語の名前、
オトゥルンの意味が、
“要塞化された家”でしたが、
これには理由がるんです。
他の都市(チチェンイッツァやカラクムルなど)と違い、
背後に山を背負っており、
都市発達が放射状にされなかったんです。
これは防御的な理由からと考えられています。
ちょうど南から北に向く形で都市設計がされており、
これがタバスコ方面に向かって広く、
支配下に収めることができた要因と考えられてます。
☝☝☝こんな感じです。下が南、上が北です。
(Google Mapsより)
パレンケの街は、
220ヘクタール(東京ドーム47個分)に及び、
タバスコ、チアパスの広大なエリアを支配ていました。
ではなぜそこまで発展できたのか。
それには3つの理由があります。
一つは水。
パレンケ周辺には9つの川があり、
更には56の湧き水がありました。
水源に恵まれていたのです。
川は都市設計に合うように“工事”され、
都市に水が引き込まれました。
二つ目は、
食糧の確保です。
ちょっと手元に住民数のデータが無いのですが、
少なくない住民の生活を支えるだけの食糧を確保できる農地がありました。
三つめは、
上述の防衛的な都市設計です。
☝☝☝中央左がパカル王の墓が発見された宗教的建造物
更に特徴的なのは、
象形文字です。
これは他の街の高貴な人達との婚姻や、
政治、はたまた戦争の状況に渡って書かれています。
これらの象形文字は、
メソアメリカで最も初期の“文字”とされているのです。
パレンケの近く(といっても片道3時間圏内)には、(苦笑)
パレンケと同時期に栄えていた都市跡がいくつかあります。
南のオコシンゴにはトニナ(Tonina)、
南東のウスマシンタ川沿いには、
メソアメリカ3大壁画の一つがあるボナンパック(Bonampak)、
120の建造物、124もの“文”が、117の石碑などに残されている
ジャチラン(Yaxchilan)は、
テオティワカンやチチェンイッツァのような大きな“ピラミッド”は無いものの、(笑)
マヤ前期の都市の中でも印象的な都市でした。
少し遠くなりますが、4時間半程のところにカラクムルがあります。
せっかくパレンケに行かれた“ついで”にでも、
そちらの方にも足を伸ばされることをおススメします~
(もちろん、僕が全てご案内させ頂きます)
「ここもメキシコ!?」と思ってしまうチアパスの旅
おススメです。(笑)
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