観光業的に無名の場所で歴史的な場所って意外と多いんです。502年前の出来事に想うこと。(2/2)
成田から直行便でたったの12時間、2022年の夏休み、年末年始の海外旅行、メキシコ観光は弊社におまかせください。
前回の続きです~
前編まだの方はこちら👇をどうぞ。
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これまでにもたくさん書いてきましたが、
「太陽」の存在って、
メソアメリカでは特別でした。
「太陽」を中心に、
人々の生活すべてが回っていた、
といっても過言ではありません。
「太陽の為に命を捧げる」なんて、
まさにそれを象徴していまよね。
それが生贄であり、
そのたの宗教的な儀式であり、
都市設計であり、
今日僕らが目にするピラミッドを始めとする建造物だったり。
全てが「太陽」でした。
んで、
その日本の旧暦の「皐月」に相当するメキシコの旧暦がToxcatl月。
トシュカトゥルと読みます。
前編で5番目の太陽を創った神と書きましたが、
Toxcatl月はその神、
テスカトゥリポカ神を敬う月だったんです。
そりゃ、盛大になりますよね。
1520年のToxcatl月に、
ベラクルスで同郷人によるちょっとしたクーデター未遂があってですね、
大将のエルナン・コルテスはベラクルスに遠征し、
この騒動を鎮静化させます。
その間、
首都テノチティトラン(現メキシコシティ)を、
部下のペドロ・デ・アルバラド👇に任せるんでが、
コイツがですね、
(Museo Virreinato Tepotzotlán蔵)
Toxcatl月のテスカトゥリポカ神の儀式に集まっていた民衆400人余りを虐殺するんです。
そもそもペドロは野蛮な人物で、
なんでコイツにコルテスは留守番を任せたのか、
今となっては知る由はありません。
ちなみにこのペドロ・デ・アルバラドは、
船のナンパで辿り着いたユカタン半島東岸で、
マヤ人に「帰化」してかつて仲間であったスペイン人と戦い、
現地のマヤの女性と結婚、
アメリカ大陸で最初のヨーロッパ人との混血の子を儲けた同郷人のゴンサロ・ゲレロを、
今日のホンジュラスで殺すことになります。
👇ゴンサロさん一家の銅像(チェトマル市)
そんな動物のような野蛮人ペドロによって虐殺された群衆は、
テノチティトランに居座るスペイン人に反感を抱き始めます。
その前には、
地方の「年貢」の流通を仕切っていた、
いわばメシカの大使のようなポストの人間(Calpixque)を殺害。
これにより反乱気運が高まっていました。
そんな状況下、
反乱を抑えるためにコルテスはモクテスマ2世を逮捕、投獄してしまいます。
👇ここに
時が過ぎ、
6月29日の夜。
エルナン・コルテスに帯同していた、
今風に言えば「占い師」がある夢を見たとのこと。
「我々はメシカ人の攻撃を受け、生贄にされてしまう」
という文字通り「悪夢」ですね。(苦笑)
恐れ慄いたコルテスは翌日スペイン人将校に相談し、
今夜(6月30日)中にココ(テノチティトラン)からの「脱出」を決めます。
がぁ、
昼夜テノチティトランはメシカ人の目があり、
そうやすやすと逃げられない。
そこで取られた方法というがヨーロッパ的な「主君の抹殺」、
つまり「メシカ帝国皇帝モクテスマ2世の殺害」です。
一般的な本に書かれているのは、
スペイン色の伝説で、
「ベランダで今にもはじけそうな群衆の怒りを治めようとしていたモクテスマに投石があり殺害された」
というものですが、
メシカの心臓部で神聖な場所、
テノチティトランにそう簡単に一般住民は入ることが出来ませんでした。
コルテスはメシカ人の注意を引きつけるために、
モクテスマともう一人(名前を思い出せません・・・)を、
拘留地の建物の屋上に上げ、
「殺害」し、
二人の遺体を現マデロ通りに「投げ捨てる」
というパフォーマンスをやってのけたのでした。
👇今日のマデロ通り
メシカ人がその光景に気を取られているすきに、
スペイン人はマデロ通りの反対側の、
現タクバ通りを一目散に西へ向かって逃げるのです。
実際に彼らが逃げた道がここ👇
テノチティトランの西端付近に差し掛かったとき、
橋が壊されており、
加えてメシカ人の猛烈な石攻撃を食らい、
金塊を持てるだけ持って逃げていたスペイン人の多くは、
鉄の鎧と金塊の重量で湖底に沈みました。
その時に沈んだ金塊というのがこれ👇
この金の延べ棒が唯一のこの事件の物的証拠となっていて、
とても歴史的価値が高いものです。
博物館ではみんな通り過ぎちゃいますが。(苦笑)
コルテスを含むスペイン人の生き残りは、
西へ走り続け生き延び、
最終的にトラスカラへ「避難」します。
👇左が西
👇が西方面、中央の道がタクバ通り、中央部が今日のソカロ一帯
メシカ人に捕らえられたスペイン人は、
テノチティトランに着いたばかりの別のグループと合わせて数百人とされ、
その後「生贄」にされたのでした。
しかしながら、
メシカ人はコルテスを追っかけませんでした。
スペイン人の抹殺に余裕がなかったんです。
それよりも、
混乱するテノチティトラン内部を落ち着かせる必要があったんです。
それを担ったのが、
モクテスマ2世の弟で第10代皇帝のクィトラウァック。
クィトラウァックはこの80日後に天然痘で死ぬわけですが、
一連のスペイン人との混乱で重要な役割を果たし、
メシカの「真のヒーロー」と言えます。
天然痘については、
スペイン人が連れてきたアフリカ系黒人が持ち込んだ、
という説が広く知られていますが、
実は今はもう絶滅してしまった西インド諸島のタイノ人によってです。
この天然痘によってメシカのクィトラウァックをはじめ、
周辺のキーパーソン、
多くの住民を死に追いやりました。
そこで僕はこう思うんです。
もし「勝利の夜」でスペイン人を追っかけて全滅させていたら?
もし「天然痘」が入ってきていなかったら?
どうなっていたのか、と。
僕が推測するに、
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メキシコ在住17年目のメキシコガイド兼ドライバーが、
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- スペイン人ではなくイギリス人が乗り込んできていた
- 征服した地域はメシカ(アステカ)ではなく、マヤだったかもしれない
- 「ヌエバ・エスパーニャ」という「一国」としてまとまらず、もっと“バラバラの国”になっていたかもしれない
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