今から408年前の今日、アカプルコで起こったこと。

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アカプルコは日本の平戸のような場所だった。

👆ヌエバ・エスパーニャ(スペインの植民地)時代のアカプルコ湾。下に見える青い部分がサン・ディエゴ要塞(出典:INAH)

👆1870年のものと思われるアカプルコ(出典:Guerra y Familia: Legado japonés

👆現在のアカプルコ(撮影:岩﨑)

 

 

先週のPCR検査で「陽性」が出てしまってちょうど一週間。

延期された手術を明後日木曜日に控え、

今日サイドPCR検査に行ってきました。

 

たぶん保険は一度しかおりない?

から出費が痛い・・・

拙宅近くのだと高いので、

6千円を節約するために空港まで行ってきました。(苦笑)

👆はい、6千円は大きいですねぇ。

 

メキシコシティ空港はホントに市内にある空港でして、

拙宅からも渋滞がなければ20分ほどで着いちゃいます。

ホントに便利なんですよ。(笑)

日本に帰るときに憂鬱なのが、

成田から都心に出るだけでも1時間は掛かり、

結構な移動のように感じるほどなんですが、

メキシコシティは、

下手するとスーパーにお買い物に行くのと同じような、

身近な感覚なんですね。(苦笑)

(誤解があっちゃいけないので書きますが、

近いからと言って油断しないでくださいね。

旅行者は土地勘が無くて無防備な人が多いので、

空港タクシーは安心だと思って乗って気が付いたら

ヤバいエリアに連れ込まれていたらしく、

危ない目にあったという話)

 

また喉に綿棒突っ込まれて俄かに吐きそうになり、

その後鼻にも突っ込まれて痛くて涙は出るしで、

もう3回目は勘弁してほしいです。

 

ともあれ、

空港のPCR検査は24時間体制で、

8~10時間で結果が出るという点でも都合が良いです。

 

で、

話を本題に移しますと、

ちょうど408年前の今日のアカプルコに、

史上最初の日本人グループが上陸したのです。

 

東北、特に宮城県の方や、

歴史にお詳しい方でしたらご存じでしょう。

東北は伊達藩、

伊達政宗の家臣で、

彼の命を受けた支倉常長さんが、

1613年の10月28日に、

宮城県月の浦港をスペイン人宣教師と180人の船員ともに、

サン・フラン・バティスタという船で出向、

1614年の1月25日に、

メキシコの元祖リゾート地であるアカプルコ港に上陸した日なんです。

👇支倉常長さん(出典:Relatos e Historias en Mexico)

👇支倉常長さん(出典:サン・フアン館)

👇支倉常長像(アカプルコ)

👇ここから出航

👇ここに上陸

👇こういう航路

(出典:サン・フアン館)

 

当時は「メキシコ」という国はまだない状態。

1614年って、

あの有名なアステカで知られるメシカ帝国に、

スペイン人のエルナン・コルテスが占領を目的として無血入城してから、

まだ95年しか経っていなかった時代。

👇エルナン・コルテスとモクテスマ二世の出会いの瞬間(1519年11月8日)

「しか」っていうのもなんですが、

今日メキシコある土地に始まった人類の定住の歴史9000年からすれば、

「たったの」95年です。

 

当時はヌエバ・エスパーニャという、

スペインの植民地だったんです。

有名なマゼランの1521年のフィリピンで戦死後、

アジアはフィリピンも植民地化し、

ヨーロッパ、アメリカ大陸、そしてアジアのフィリピンを植民地に持ち、

「太陽が沈まない国」という異名も生まれました。

 

当時の植民地総督(ヴィレイVirrey)はディエゴ・フェルナンデス。

スペイン語では植民地総督をヴィレイと呼びますが、

Viは2、Reyが王です。

第二(植民地)の王、という意味。

 

そのディエゴ・フェルナンデスはアカプルコに使者を送り、

支倉一行を迎えます。

アカプルコの人達は、

日本人集団とその船の入港に大層たまげたようです。

 

土産として、

金属製品や机などの品もそうですが、

何よりも当時の現地の人達が驚いたこと。

それは・・・

 

ちょんまげ。

 

剃り上げたおでこはテカって、

髪の毛は側頭部から後方にかけてあり、

上にはマゲが。

 

メキシコ(当時はヌエバ・エスパーニャ)に日本人として初めて上陸後、

一行は途中クエルナバカなどのいくつかの町に寄りながら、

首都メキシコシティに向かい、

同年3月4日に到着します。

一行の一部はメキシコシティ中心部にある、

サン・フラシスコ教会で洗礼を受けたよう。

👇ここ

サンフランシスコ教会といえば、

アメリカ大陸で最初に、

「正式に」クリスマスのミサが執り行われた場所としても知られています。

 

ちなみに、

その向かいにある通称「青タイルの家」に、

支倉一行は宿泊したとか。

(当時は青タイル張りではありませんでしたが)

👇左の建物

 

メキシコシティで2カ月ほど滞在した後、

一行はプエブラを通り、

大西洋側のベラクルス港(サン・フアン・ウルア)から、

同年6月10日に、

スペインはカディス(Cadiz)港経由でセビジャへ。

👇ベラクルス港

👇カディス港

その後バチカンでローマ教皇に謁見し、

伊達藩への宣教師の派遣とメキシコ―日本間の通称を申し込むのですが、

願い叶わず。

 

支倉使節団が日本から出航してから7年もの歳月が流れ、

幕府側の意向は禁教令、外国船舶排斥、

いわゆる鎖国の方向へ流れていたこと、

そしてスペイン側から通商の申し込みに対する返答を得られぬまま、

1920年9月22日に長崎経由で仙台に帰着。

👇平戸の港とポルトガル船の模型

そのわずか1年後の1921年(22年の説もあり)に病死したとのこと。

 

ちなみに、

一行の一部は日本に帰ることなく現地社会に馴染み、

住みついたようです。

先日チアパスへの榎本植民団の話をしました。

1897年の話でしたが、

それよりも300年近く前に、

一部の日本人がこのメキシコの地に移民したことになりますね。

👇チアパスの入植地(チアパス州アコヤグア)

 

日本とメキシコ、

言葉も文化も国民性も食べ物も、

何もかもが違い、

現代の日本の多くの人には「危ない国」、

「遠い国」としか思われていないメキシコですが、

今なんか12時間座っていれば着いちゃうのです。(苦笑)

当時は黒潮に乗って3カ月、4カ月もかけて太平洋を渡ったんです。

それに比べれば、

隣町に遊びに行くようなもの。(苦笑)

 

はい、そんなわけで、

日本人として初めて今のメキシコがある土地に来た人、

支倉常長さんのお話でした。

そんなむかぁしの日本人の足跡を辿る旅なんかも、

我々日本の心を、

グッとメキシコに近づけてくれるものかもしれません。

ぜひメキシコ旅行の際にはご一考してみてはいかがでしょ~

 

ではでは~

 

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