【ベラクルス観光のすゝめ】実は皆さんが知るあの人もココに降り立った


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前回👇の続きです~

【ベラクルス】メキシコのヨーロッパ化はアメリカ大陸のヨーロッパ化の幕開けです。

あの人もこの作物も、全てはココを通った

エルナン・コルテスの「一歩」」が意味すること

前回はちょいと話がベラクルスからそれましたが、

こんな風にですね、

このベラクルスにおける、

エルナン・コルテスとその一行の「ベラクルス上陸」という大事件が、

後のメシカ帝国の崩壊=メソアメリカ文明の滅亡という流れに繋がるのです。

 

この👆ベラクルスにおける「コルテスの最初の一歩」が、

今日メキシコでスペイン語が話され、

カトリック教が国民の8割にまで浸透し、

豚肉や鶏肉を食べ、

タラベラ焼きという陶器が世界遺産になり、

白人と呼ばれる人がいて、

豪華絢爛な教会がたくさんあり、

加えて日本をはじめとする世界中の国で、

トウモロコシやチリ、カカオ、トマトなどが食卓に上る所以なんです。

 

今でこそ「島」であった面影はないんですが、

どうも1537年頃にはウルア島に人の背丈ほどの塔のようなものがあり、

要塞ほどはないものの、

防衛を目的とした壁が建設されていたという記録が残っています。

 

「港」として機能

1584年には20棟ほどの家と思われる建造物や病院、

そして「港」が建設されていました。

 

この「港」がですねまた歴史的現場でして、

まさにこの「港」から、

歴史的重要人物はもちろん、

上記のトウモロコシなどの、

メキシコが原産の農作物がヨーロッパへ渡り世界に広まり、

スペイン語やキリスト教、建築技術が入り、

太平洋のガレオン船貿易で得た日本を含むアジア産品が、

ヨーロッパへと流れたのでした。

 

1614年には伊達藩から支倉常長氏が、

ローマ教皇への謁見へ向かう途中アカプルコへ上陸し、

メキシコシティ経由でここベラクルスからヨーロッパへ渡っています。

 

まさにココから乗船したと思うと、

なんかもの凄く感慨深い気持ちになりますね~。

 

アメリカ大陸初のヨーロッパの町づくり

当時は陸側への停泊が難しく、

風や波などの影響を受けやすかったことから、

わざわざウルア島の南西部分に「港」を設け、

そこから小舟で人や物資を陸まで運んでいたのです。

 

その記念すべきスペイン人の初上陸地点には「町」が建設されます。

その名を「Villa Rica de la Vera Cruz」と言いました。

Villa Ricaというのは「本国スペインのように富んだ町」、

VeraというのはVerdaderoで「本物の」、

Cruzは「十字架」

直訳すると、

「スペインのように富んだ本物の十字架の町」

 

これが今日の「ベラクルス」または「ヴェラクルス」の語源です。

 

上陸直後、

エルナン・コルテスはアメリカ大陸初の「市役所」を暫定的に設置します。

今のベラクルス市ですね。

 

ただこのVilla Rica de la Vera Cruz市は、

この後2ヵ所に移転し、

最終的に今のベラクルス市がある場所に戻ってきます。

 

一ヵ所はクィアウィストラン遺跡近くの海岸で1519年5月に移転。

しかしそこでは暫定的な低留置に留まります。

 

もう一ヵ所は現ラ・アンティグア。

こちらに1525年に移転し1600年までベラクルス市として、

人と物資の通り道として機能します。

実際ラ・アンティグアの町には、

アメリカ大陸最古と言われる教会👇や、

エルナン・コルテスの家、ではなく旧役所👇が残されています。

 

ラ・アンティグアから今のベラクルスに拠点が戻るのが1600年ごろ。

 

「要塞」として数々歴史的事件の矢面に

これと同時期に、

ウルア島にはお城の建設が始まりました。

お城といっても港を守るのが目的。

 

1689年に現在の「要塞」に近い形の建造物の建設が始まったと考えられ、

1761年に今の形に近いものになったようです。

 

このベラクルス港、

メキシコの歴史の中でも数々の歴史的事件の舞台となりました。

やはりヨーロッパ側なので、

敵(他国)の侵略を受けやすかったのです。

 

この一帯の海域にイギリスやフランス、そして独立後はスペインと艦隊を集め、

独立後約50年にもわたって混迷を極めていた「メキシコ合衆国」に脅しをかけたのでした。

 

メキシコ史の中には諸外国によるいくつかの「侵略」があるのですが、

大きなものですと1847年のアメリカの侵略。

これが元でメキシコは半分以上の領土を失い、

今ChatGPTで熱くなっているカリフォルニア州を含む土地を失った、

と言うことは知っている人も多いはず。

 

もう一つはフランスによるもので、

「シンコデマヨ」という祝日がアメリカやカナダで祝われるようですが、

これってメキシコのフランスに対する戦勝記念日です。

 

1862年にナポレオン三世のフランスがメキシコに押し入り、

メキシコシティ西部のプエブラという場所で合戦を繰り広げたのでした。

 

これにメキシコが勝利、

それが5月5日の子供の日。

ではなくて(苦笑)「シンコ・デ・マヨ」。

シンコは「5」、

デは「の」、

マヨは「5月」。

 

ここで負けた往生際の悪いフランスは翌年また侵略を繰り返します。

これにはメキシコは負けてしまい、

とうとうオーストリア人のマキシミリアンに皇帝の座を許してしまうことになります。

はい、メキシコは1864年から1867年まで約3年に渡り、

メキシコ人でもフランス人でもスペイン人でもないオーストリア人により、

統治されていた時代があったのでした~

 

 

この1863年の侵略時のフランスの指揮官の一人にジュール・ブリュネ👇という人がいます。

この人、実は日本のある幕臣と知りあいなんです。

この人👇

 

榎本武揚氏です。

倒幕回避に失敗し、

北海道に蝦夷共和国をつくろうとした人です。

 

フランスで知り合った二人は意気投合し、

榎本さんはブリュネさんからいろいろメキシコのことを聞いて高揚します。

これが1897年の榎本移民団に繋がります。

メキシコへの日本人移民はブラジルやペルーよりも早いんです。

 

さらに、

榎本さんはブリュネさんに呼ばれ、

なんと1868年の戊辰戦争で共に戦っているのです。

敗戦後国外追放になりますが・・・

 

そう考えると日本とメキシコ、

太平洋1万キロを隔てている遠い国同士に思えますが、

1863年フランスの侵略と1868年戊辰戦争と、

似たような時代に、

同じ人物(ブリュネさん)が、

メキシコと日本の大事な事件に関わっているって、

なんか感じるものがありますね。

もちろん、ブリュネさんがココ👇

サン・フアン・デ・ウルア港に降り立ち、

現ベラクルス市からプエブラ方面へ向かったわけです。

 

気が付いたら書き過ぎていたのでこれで一旦切りますが、(苦笑)

少しベラクルス観光の重要性と歴史的な面白さ、、

お分かり頂けましたでしょう~。

 

それではみなさん、

ベラクルスでお会いしましょ~(笑)

 

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