テオティワカン衰退後の動乱期に繁栄したソチカルコとは・その2
メキシコ在住15年目、
「メキシコの素顔を世界に!」
をモットーに、
メキシコ公認ツアーガイド兼ドライバーの岩﨑コウです。
ソチカルコとは・その2
前回の続きです。
【その1】ソチカルコ
それで、
このアルティプラノ圏(メキシコシティ周辺)をみるとですね、
メキシコシティにあるクィクィルコが起源前800年頃に始まり、
テオティワカンが起源前200年頃から建設され、
東のプエブラ近郊にテオティワカンと友好関係にありながらも独立していたチョルーラがあり、
さらにその東にはテオティワカンと敵対していたカントナが、
そして、
テオティワカンの衰退とともに、
今回のソチカルコや、
トラスカラ州のカカストラが600年代から900年頃まで繁栄し、
その後チチェンイッツァとふかぁ~い関係があったと考えられているトルテカの首都トゥラが900年前後から、
そしてアステカで知られるメシカ文化が1300年頃から、
とまぁまぁまぁ、
この決して大きくない文化圏に、
それはそれは沢山の文化と独立した都市が存在した(していた)んです。
(注:上記のそれぞれの文化や都市は、年代が重なるものもあれば全く別の年代のものもあります)
テオティワカンだけ見ても、
マヤをはじめ、
たくさんの文化の寄せ集めの都市だった、
ということは、
先日ちょこっと書きました。
そして、
そのテオティワカンが突如?崩壊し始めるんです。
有力な説としては木を伐採し過ぎたために引き起こされた環境の変化。
その巨大都市が、
文字通り放棄されてしまうと、
その住民や子孫たちが、
メソアメリカ各地に散らばり新たな居住地を築くわけですが、
ソチカルコもその内の一つと考えられています。
その証拠として、
テオティワカンの影響を受けたとされる彫刻(レリーフ)が残されています。
さらに!
テオティワカンが巨大な「国際都市」だったという事は前述した通りですが、
ソチカルコも、
多文化の“共存”を裏付ける証拠が出ているです。
それがこの宗教的建造物のレリーフ(彫刻)の一部がこれです☟
調査によると、
神殿の一部に描かれているのは、
どうもソチカルコの住人とマヤ、
トトナカなどのベラクルス湾側の民族、
オアハカの民族(時代的にサポテカ族か)、
が皆既日食を祝う祭事をしている様子ではないか、
ということです。
テオティワカンの“伝統”を踏襲してか、
各地の民族間では交易が続けられていたようです。
ソチカルコは、
マヤのユカタン地方と、
オアハカ、
メキシコ湾側と交易があったようです。
たまに、
「ソチカルコはマヤの都市!」
と言っている情報源がありますが、
マヤ人はいても、
マヤの植民地だったわけではありません。
冒頭に少し書きましたが、
このソチカルコの都市は、
130mぐらいの山のてっぺんにあるんです。
不思議ですよね~。
なぜわざわざ山の上に?
都市建設には地面を平らにする必要があります。
石材なども上まで運ばなければなりません。
☝今のようにブルドーザーもないので大変です。
その目的はただ一つ。
そう、防衛です。
各都市、
どこでも防衛システムというのはあったわけですが、
例えば、
テオティワカンはだだっ広い平野のど真ん中にあります。
片やソチカルコは山の上。
この山の上の“築城”についてはココだけでなく、
メソアメリカ各地でも見られます。
あとは、
アクセスの制限です。
中心部に至るまでの経路を複雑化することにより、
敵の侵入を
防いでいたのだと考えられています。
このような強固な防衛システムが確立されていた場所は、
プエブラ州のカントナ、
トラスカラ州のカカストゥラ、
オアハカ州のモンテアルバン、
高台ではありませんが、
チアパス州のパレンケも防衛都市でしたね。
北の方だとチワワ州のパキメという都市が主なものです。
このような防衛システムの強化は、
その時代の状況を繁栄していたとも考えられます。
つまり、
戦争が多かった。
ソチカルコや、
トラスカラ州のカカストゥラは、
このアルティプラノ・セントラル圏の動乱期、
エピクラシコ期(700~900年頃)の象徴的な都市跡とされていますが、
なぜ防御を固めなければならなかったのでしょう?
それはですねぇ・・・
また次回に(笑笑笑)
#MexicoCentralTours
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