テオティワカン衰退後の動乱期に繁栄したソチカルコとは・その3

メキシコ在住15年目、

「メキシコの素顔を世界に!

をモットーに、

メキシコ公認ツアーガイド兼ドライバーの岩﨑コウです。

 

テオティワカン衰退後の動乱期に繁栄したソチカルコとは・その3

スミマセン!

ソチカルコの最終回、その3を掲載するのを忘れていました・・・

間にチャルチウィテス、

昨日のチョルーラが入ってしまい、

皆様を混乱させてしまうかもしれませんが、

お許し下さい。

昨日に続き、

遺跡が続いてしまいますが、

また忘れないうちに今日掲載することにしました!

 

その1、その2はこちらをどうぞ。

【その1】ソチカルコ 【その2】ソチカルコ

 

前回の答え:

テオティワカンの崩壊に起因します。

 

テオティワカンは、

約800年に渡って、

アルティプラノ圏だけに留まらず、

遠くは西のハリスコ州の方や、

ホンジュラスのコパン、

グアテマラのキリグア、

ユカタン北部の都市とも交易がありました。

当時の広域に跨る商業を牛耳っていた、

といっても過言ではないです。

 

そんな巨大な“権力”が消えるとどうなるか。

求心力を失った各地のグループは、

領土の覇権に躍起になり、

争いが増えます。

 

だ・か・ら、

高台に都市を建設し、

かつアクセスを複雑化し防御を固めたわけです、、、

 

という言うのが定説で、

学校の教授からも教えられたのですが、

別の公式資料によると、

どうもその見解に異議が出ているとの事。

 

別の要因、

例えば一種の“象徴”としての機能を果たすべく、

敢えて高台に建設したのではないか、

という見解も出ているようです。

 

いくら外敵に対する防御を固めても、

内乱で分解したとも考えられているんです。

その証拠に都市内部では焼かれた跡が見つかっています。

石像や石碑は故意に破壊され、

放棄されていました。

ソチカルコに限らずです。

 

てことはですよ、

本当に防御が目的だったのか。

「敵はうちにあり~」

じゃないですが、

権力の象徴とすべく高台につくったのであれば、

内部の権力抗争が起っても不思議ではない?

 

皆さんはどうお考えでしょうか?(笑)

 

あと、

この動乱期エピクラシコ期の特徴として、

偶然か必然か?

他の地域、

メソアメリカ北部や、

南部のマヤの前期の巨大都市が衰退します。

 

メキシコの遺跡といえば、

もっぱらアステカ&マヤですが、(苦笑)

北部にもあるんですよ~。

 

北部には、例えば、

サカテカスのラ・ケマダや、

厳密にはメソアメリカではなく、

オアシスアメリカになりますが、

パキメという都市跡がチワワ州にあります。

 

何れの都市も、

900年に向けて、

衰退の一途を辿っていて、

800年代後半には放棄されていた場所もあります。

 

700年頃の巨大都市テオティワカンの崩壊を筆頭に、

マヤの前期や北部の都市の衰退、

同時期に何が起こっていたんでしょうね~。

 

これらの都市の崩壊により、

ソチカルコにはマヤやベラクルス、オアハカ系の民族以外にも、

地方からの人達が集まったと考えられています。

数々の動乱を経て、

アルティプラノ・セントラル圏では、

新たな権力都市が生まれようとしていました。

それを、

チチェンイッツァのところで書きました、

トゥラ(Tula)と言います。

 

ソチカルコについて、

こんなに書くとは思っていませんでしたが、

背景にあるものがデカいので、

長編3部作になってしまいました。(苦笑)

 

メキシコの遺跡って、

それ1ヶ所だけで見ようとすると、

なかなか分かりづらいんです。

テオティワカン1ヶ所の、

しかも断片的な話を聞いても、

「ふ~ん、へ~、ん~・・・」

だと思います。(苦笑)

☝知る前の僕です。

 

それは何度か書いているように、

メソアメリカ(今日のメキシコ)文明というのは、

多くの文化の集合体だからです。

各文化の属性や、

各地の同年代での出来事、

それぞれが合わさって、

テオティワカンなり、

マヤなり、

メシカ(アステカ)文化が存在していたのです。

 

☝ご心配なく。

ちゃんと理由があって、

ワザとある程度マニアックに書いているので、

この場でご理解できなくても全然大丈夫ですヨ。(笑)

 

メキシコでわかりやす~く、

ご説明差し上げます。

 

ではでは、

ソチカルコ編、

お疲れ様でした~

 

#MexicoCentralTours

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