メソアメリカの「二重性」から見るモノゴトの本質
メキシコ在住16年目、
「メキシコの素顔を世界に!」をモットーに、
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👆マヤの神聖な木セイバは人々の世界観の軸を成していました。デカすぎて入りません。
スポーツ大会はどこへ向かう?
先日、 肩の手術から一週間を迎え、 ドクターの検診に行ってきたのでした。 「もっと動かさないと」と言われたんですが、 これがなかなかキツい。(痛痛痛) 痛いんですよね。(苦笑) 傷口の痛みじゃなくて、 肩というか腕の芯から痛み、 縦の動きは問題なくても横の動作がほとんどできない状態。 「痛くても我慢して動かさないと肩はすぐ固まるから」と、 厳しお言葉を頂いたんですが、 同時に散歩許可はもらえました。(喜) 1週間外に出られないって、 ホントに身体がどうにかなってしまうかのような感覚です。(苦笑) で、 術後の初めての散歩で妻と話していたんです。 あるアメリカでの学生水泳大会でのでき事について。 女子部門で、 男性から性転換手術をした女性選手の勝利に多くの抗議が噴出したという話。 ご存じの方も多いでしょう。 妻とその話をしていて、 「あ~現代っぽいねぇ」と思ったのでした。 テストステロン量が多いとか、 エストロゲンが少ないという理由で、 「女じゃない」「男だ」って 決めつけられる、 あるいは決めたがるっていう点。 皆さんはどう思います? 僕は運動が好きな方で、 ある程度は得意と言ってもいいと思うんですが、 今では勝負事にはめっきり興味が失せてしまいました。 小学校はサッカー、 中学には軟式テニス部しかなかったからそれをはじめ、 高校までの6年間、 遊びじゃなくて子供なりに「勝つため」にやっていました。 大学は大学で、 呑気に学生生活を謳歌しようと考えていたんですが、(苦笑) そんな甘ちょろい考えで入った部活が体育会のスキー部で、 これも結局競争で萎えちゃいました。(沈) そんなよぼよぼな学生生活に自らピリオドを打ち、 ようやく“真剣に”幸せに生きるための道を歩み始めて、 メキシコという国に出会っても、 会社や仕事で「競争」というのは生活から離れることはありません。 今やっているガイド業だって、 僕は呑気にこういうメキシコ通信を好き勝手に書いて、 日々自己満足して楽しんでいるんですが、(苦笑) 公開している以上、 そこには「他の通信より読まれたい」という競争心が、 心のどこかに無意識に働いていることは自覚しています。 そんな自覚も含めて、 僕は「競争」というのに興味が失せて、 自分の中ではかなり白けているんです。(苦笑)「勝敗」という2色より大事な色。
互いの優位性を示そうとするのが競争の根源にあると思うんですが、 それが過熱しすぎると、 自分の根源を失う気がするんですよね。 ようはストレスと同じように、 適度な競争は進化にも繋がるからいいと思うんです。 なんかこう、 競争っていうのを俯瞰して見ると、 白と黒2色で色付けしようとしている世の中っていうのがあって、 僕にはそれがとても終わりが見えない虚しいもののように思えるんです。 どういうことかというと、 身近なものですと、 今は受験シーズン。 受験て「合」か「否」だけですね。 たとえ激烈に頑張っても1点でも届かなければ「否」の烙印を押されます。 会社の営業だって、 オーダーを取るか取らないか。 いくら売れない日本酒の啓蒙活動を行っても、 「今年の利益」が出なければ評価されません。 それらの「競争」に負けたりすると、 今度は「生」か「死」という状況になります。 その中間(営業だと啓蒙活動のような状態)だと、 あたかも存在していないかのような、 周りの目も気になったりして、 もの凄く居心地がわるくなったり。 そうすると否応なしにどうしても「決着」をつけたがります。 最近はやりの「論破」ブームだってその一つ。 あ、そういえば、 状況は競争とは違いますが、 眞子さん・小室さんの件も同じことが言えると思います。 なんかそういう不毛な議論に 興味を失ってしまった僕なんですが、(沈) 何が不毛なのかというと、 どうしても白黒をつけないと気が済まないっていうのは、 「自然」を無視しちゃってるから。 今の習慣や政治、モラル、法律、スポーツなどなど、 そういうのって僕ら人間が過ごしやすいように作られ、 変化してきたものであって、 必ずしもそれが、 木からリンゴが落ちる万有引力的に、 人々に「公平」に作用するわけじゃありません。 男でも女でもなかったら、なんでオープンであるべき競技大会に参加できないのか。 国民の税金で生まれて生きてきたら、なんで自分の結婚に国民の了承を得ないといけないのか。 受験に失敗したら、なんで「全てが終わり」なのか。 👆こういうのって、 「自然」とマッチしない人間が勝手に作った概念の下に起こる状況です。 「たまたま」テストステロンが多めに生まれた女性、 「たまたま」皇族に生まれた女性、 「たまたま」地頭が悪くて世間で良いと思われている学校に入れなかった人。 👆これって全部自然です。 👆この自然のために競技大会に出られない、好きに生きられない、はたまた「生」を終えてしまう人が増えている現代。浅はかな「持続可能性」は「持続不可能性」。
今日ではまたなんか新たなムーブメントが出てきました。 「持続可能性」っていう、 僕はこれも結局表向きだけだよねぇ、 なんて思っています。 僕は他の地域のことは良くしりませんので、 メキシコの例を出しますね。 昔のメキシコにはメソアメリカ文明という、 高度に発達した文明社会が広がっていました。 いろんな特徴を有するから文明レベルに発展したんですが、 その一つに「二重性」という概念があります。 デュアリティ。 天と地、生と死、秩序と無秩序は対ではなくて、 同じ世界に存在する異質なもの、 という考え方。 👇セイバを縦の軸、地上が横軸、天・地・地下に分けられますが、それらは同じ世界です。
先日アステカで知られるメシカの暦についてちょっと書きました。
せっかくきっちり20日を18回繰り返して、
なぜか最後に5日間余るっていう暦。(苦笑)
秩序がないから人々が不安に陥りました。
でも敢えて5日間だけの頼れる神様を置かず、
年明けまで無秩序を保った。
「死」は「生」を生む、
だから「死」は「悪」ではなく「神聖」なもの、ものもそう。
だから生贄が行われていました。
注:👆勘違いしないでくださいね。
現代の価値観にこの死生観は当てはまりません。
「命」は掛け替えのない大事なもの。
僕が言いたいのは、
現代では対に見える概念が当時は同時に存在できていたということ。
例えば、
日本は未だに障害者には寛容的でなく?
障害者と共演を拒む俳優もいるとか。(呆)
(障害者の定義はココでは日常生活を営む上で、何らかの支障が出る障害を心体にもつ人と仮定)
障害者が障害者役という特別なものとしてではなく、
健常者(ココでは日常生活を営む上で支障がない人と仮定)
と同じ「俳優」として出演するってまだ抵抗がある、
ていう話を聞いたことがあります。
最近だとブレイキングバッドに主役の一人に“障害者”がでていますが、
「障害」にスポットライトがあてられるんじゃなくて、
あくまで「一家の息子」としての役回りですね。
健常者と障害者が対になるのか、
あくあで自然的に異質な人間同士として共存するのかの違い。
ちなみにメソアメリカでは、
現代でいう「障害者」は「普通」を超越した、
神様の使者として、
神聖な存在として扱われました。
それで、
性転換手術をし、
ホルモン治療をし、
水泳大会の規定も全てクリアした上で出場し、
物議を醸しだしている件に話は戻りますが、(苦笑)
ん~、
僕はそこまでして「勝」と「負」には拘りたくないんです。
その選手だって、
好きで心と体が別々な状態で生まれたわけではありませんね。
だから、
「勝」と「負」という両極性というより、
そういう自然的な背景も含めたスポーツ大会でないと、
僕が感じる虚無感度マックスの、
上辺だけで終わりのない、
その場限りの不毛な「競争」になってしまうんです。
僕らが本能だけで生きる、
弱肉強食の世界で生きるか死ぬかの動物と同じなら別ですが、
そうでないなら、
異質のヒト、モノ、価値観などが同じ時、同じ場所に存在する状況こそ、
「自然」だと思うんですね。
それをわざわざ「同じ型」にはめ込もうとすること自体「持続不可能的」で、
昨今ブームの「持続可能性」と相反し、
戦争や貧困、不幸などという、
社会問題がお祭り状態となります。
でもこれが変わることはないでしょう、残念ながら。(苦笑)
おカネや名誉、学歴、キャリア、性別、階級などなど、
人間が都合の良いように作り出した概念が、
これだけ複雑に多岐に渡り大量に存在する世の中ですから。
そんな気が遠くなるようなものに対して、
僕はそういう上辺だけの競争ごっこに、
「興味を失った」というわけです。(苦笑)
偽持続可能性、
偽SDGs、
偽インクルージョン。
僕はやっぱり自然やそこに住む人との関わりなくして、
真の持続可能性、
真のSDGs、
真のインクルージョン、
真の競争、
そして真の平和みたいなのって、
実現は遠のくと思っています~。

