【メソアメリカ入植500年】メソアメリカが生まれるとき。終わる時。(4/5)テキーラを飲みながら。(笑)
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メキシコ在住16年目、
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公認日本語ツアーガイド兼ドライバーの岩﨑コウです。
今日も呑気にメキシコから書いています~
【メソアメリカ入植500年】メソアメリカが生まれるとき。終わる時。(3/4)
(出典:Arqueologia Mexicana)
メキシコ、というかアメリカ大陸のヨーロッパ化の原点
昨日の続き👇です~
その前はこちら~👇
メソアメリカの始まり・その1メソアメリカの始まり・その2
502年前、
スペイン人は当時メソアメリカで最大の勢力を誇っていた
メシカ帝国の乗っ取りを目的とし、
ベラクルスに上陸します。1519年4月のこと。
ココ👇キアウィストラン沖。
(撮影:岩﨑)
そして、
メシカ帝国の支配下に置かれ、
厳しい年貢の取り立てに大きな不満を持っていたトトナカ文化の首長、
カシケ・ゴルド(本名不明)と、
打倒メシカを目指す最初の同盟を結ぶのです。
👇ここがその現場。センポアラ(Cempoala)遺跡。(撮影:岩﨑)
メシカの首都テノチティトラン(現メキシコシティ中心部)に向け歩を進めるために、
トトナカ族の助言を受け、
メシカの監視が強いルートを避けます。
☟コルテスとスペイン隊が通ったルート
ムラサキが1519年、
赤が1520年の「勝利の夜」の敗戦後
緑が500年前の首都侵略。
そこで使ったルートというのが「ヒコ」です。
Xicoと書きます。
正式名称はヒコチマルコ(Xicochimalco)。
☟その記念日(撮影:岩﨑)
☟ヒコの谷。1519年8月に、
ココを手前に向かってトラスカラ側に抜けたのです。(撮影:岩﨑)
トラスカラ側から反撃を受けますが、
1519年9月に無事に同盟を結び、
いよいよテノチティトランへの侵略が現実味を帯びます。
ついにメシカ帝国の心臓部へ
メシカの使者によってこの状況を知っていたメシカ帝国の首長モクテスマは、
罠を掛けようとスペイン+トラスカラ隊をチョルーラ(Cholula)におびき寄せます。
そこで一網打尽に使用と考えたんですが、
逆に虐殺されます。
これが有名な「チョルーラの大虐殺」、
1519年の10月に起こりました。
☟ここです。現場の様子(出典:https://www.noticonquista.unam.mx/portada/semanal/1764)
1519年11月8日に、
テノチティトランで、
スペイン人エルナン・コルテスは、
ヨーロッパ人として初めてメシカの首長(トラトアニ)モクテスマ2世と接見するのです。
☟その様子。右の女性はマリンチェ。コルテスの通訳だったそうです。(出典:Arqueologia Mexicana)
☟その現場
☟接見500年(2019年)記念のセレモニー時。左がコルテスの子孫、右がモクテスマの子孫。
ここから2年弱に渡って、
スペイン人は現メキシコシティに居住することになります。
メシカ人の反感が最高潮に
その間、
メシカ人のスペイン人に対する反感が強まり、
ついには1520年6月29日にモクテスマが殺され、
これが引き金となり翌30日にあのメシカ人による反乱、
「勝利の夜」が起こりスペイン人は持てるだけの金を持って撤退。
そして1521年3月頃より。
再びテノチティトランへの攻撃を始めます。
スペイン人は、
ベラクルスに着けた13隻の船の内12隻を解体し、
それをテスココ湖(メキシコシティは昔湖でした)で再建造します。
規模は縮小して。
最初は陸から攻撃を仕掛けましたが失敗に終わり、
次は水上攻撃を仕掛けます。
しかもスペイン隊には大砲もありました。
👇攻撃の様子(出典:Arqueologia Mexicana)
メシカ帝国の終焉
当時のメシカの皇帝クアウテモックは、
500年前の今日、
このメキシコシティでスペイン人に捕らえられ、
スペイン人によるメシカ帝国の“乗っ取り”は成されたのでした。
👇モクテスマが捕らえられた場面とされる絵。船で逃げる途中だったという説。(出典:Arqueologia Mexicana)
👇捕らえられたクアウテモック(右)とコルテス(左)(出典:Arqueologia Mexicana)
👇金の在処を尋問されるクアウテモック左と尋問するコルテス。(1893年・MUNAL・撮影:岩﨑)
👇1525年に陰謀を疑われコルテスの指示によって処刑されます。ホンジュラスに向かう途中でした。(出典:Arqueologia Mexicana)
👇モクテスマを讃える像(撮影:岩﨑)
正式には、
この瞬間に、
紀元前2500年頃から約4000年にも渡って繁栄したメソアメリカは、
その幕を閉じたのでした。
スペインによる植民地時代の始まりであり、
アメリカ大陸の布教の名の元、
暴力とカネに塗れたヨーロッパ化の始まりでもあります。
スペイン人が「利用」したメシカの伝説
4000年が、
スペイン人の上陸からたったの2年で終わっちゃうんですよ。
はい、
メシカも悪いです。
それだけ地方の部族を敵に回していたということ。
エルナン・コルテスは賢くて、
当時のメシカにはケッツァルコアトルの再来という、
伝説が生きていたというのを、
地方部族から情報を得ていたんです。
ケッツァルコアトルっていうのは、
ナワトル語で「羽毛が生えたヘビ」っていう意味。
ケッツァル(Quetzal)というのは緑色で尾がヘビのように長ぁい鳥。
👇これ
コアトゥル(Coatl)は大地の豊かさの象徴ヘビ。
この「羽毛が生えたヘビ」っていう概念ができたのはオルメカ時代。
でも当時はケッツァルコアトルとは呼ばれていなかった。
ケッツァルコアトルという名称が出始めたのは、
900年ぐらいからメキシコ中部で繁栄したトルテカ文化から。
そういう意味では、
テオティワカンの「ケッツァルコアトルの神殿」というのは、
「間違い」。
そのケッツァルコアトルのというのは、
動物であり、
神であり、
またトルテカ族の首都トゥラの王(人間)でもある、
ちょっとややこしいものなんです。(苦笑)
そのトゥラの首長ケッツァルコアトルは、
敵対する王テスカリポカとウィツィロポシュトゥリに騙されて、
プルケ(Pulque)というマゲイ(アガベ)のお酒を3杯飲まされてしまいます。
それに泥酔した彼は、
自身の姉と親近相姦をもち、
しかも翌日の王としての儀式も怠る始末。
そんな哀れな王の姿を見たトゥラの住民は、
そんな王を見捨てるのでした。
見捨てられたケッツァルコアトル王は、
東の方、
つまりスペイン人が上陸したベラクルスの方に逃げて行った、
という「伝説」。
👇その場面。(出典:Arqueologia Mexicana)
メシカの暦で、
1519年というはそのケッツァルコアトル王の誕生と一致し、
ケッツァルコアトルの再来があると信じられていたんです。
それをエルナン・コルテスは他の部族から聞き、
その伝説を利用したんです。
自身をケッツァルコアトルに見立てて、
メシカの首都に無血入城できた、
と考えられています。
👇その時の様子(出典:Arqueologia Mexicana)
これも「伝説」です。
これがスペイン人によって歴史に後付けされたのか、
本当の話なのか、
僕はガイドなので「どっち」ってことを明言することはできません。
皆さんはどうお考えでしょう。(笑)
ぜひ現場でご想像ください~
今から500年前、
メソアメリカの4000年と比べると、
「たった500年」のように感じます。
日本は、、、
信長さんの時代の手前ですね。
まだ日本にお城がなかった時代。
でもそう考えると、
とっても昔のようにも感じます。
当時この場所で、
どんな人間のドラマが起こったのか。
その想像が旅行の醍醐味です。
ではまた明日~
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