昔のメキシコを救った奴隷経済と彼らの子孫。(2/3)
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落ち着きましたらほぼ毎日投稿に戻します。
メキシコは彼らの第2の故郷か。
👆Yangaに立つ黒人の銅像
前回の続きです~👇
アフリカ系の人々・1/3
メキシコにアフリカ系の人々が住み着いたワケ
なんでメキシコにアフリカにルーツを持つ人々が住むようになったのか、
ということです。
メキシコの場合、
大きく分けると3通りあります。
- 植民地時代に奴隷として連れて来られた
- アメリカの奴隷制度から逃れてきた人たち
- 中米やハイチからの移民
今回は1について書きます~。
そもそも「黒人」と言われる人々は、
今メキシコがあるアメリカ大陸という場所にはいませんでした。
彼らはアフリカ大陸という場所から、
大西洋という大海原を帆船で、
1520年に「誰か」によって、
初めてアメリカ大陸(今日のメキシコがある場所)に“連れてこられた”のです。
その「誰か」っていうのは「スペイン人」。
それ以前は、
カナダにも、
アメリカにも、
メキシコにも、
ホンジュラスにも、
南米にも、
「アフリカ系の人々」はいませんでした。
アメリカ大陸に最初にやって来たアフリカ系の人
ちなみに・・・
1520年6月30日の深夜から未明にかけて、
現メキシコシティ中心部で発生したメシカ人による反乱。
「勝利の夜」(旧称悲しき夜=Noche triste)と呼ばれるものですが、
この反乱が沈静化した後、
スペイン人によって連れた来られた、
またはスペイン人に帯同していた、
「アフリカ系」の男性フアン・ガリドが、
今日のサンイポリト教会の前身となる社を建てた、
とうことは歴史上の出来事として知られています。
👇その現場
言い伝えによると・・・
彼がアメリカ大陸で最初となる「小麦」を植えたとされています。
フアン・ガリドが「奴隷」だったのか、
それとも「スペイン人に帯同した征服者の一人」なのか、
説は二つに分かれていますが、
彼が、
アメリカ大陸に最初に到達した、
「アフリカ系の人々」の一人であることは間違いないでしょう。
フアン・ガリドがスペイン人征服者たちの帯同者(仲間)であったかどうかうかはちょっと脇に置いておくとしまして、
「奴隷」として多くのアフリカ系の人々が、
ヌエバ・エスパーニャ(スペインの植民地時代のメキシコ)へと連れてこられたのは事実。
推計で25万人ほど。
👆「正規の奴隷取引」としてカウントされた人たちの数で、
非正規取引によって連れてこられた人たちも、
かなりの数?いたと考えられます。
なぜ奴隷はアフリカなのか
なぜアフリカ系の人が
初期の頃は、
メソアメリアのいわゆる“原住民”と呼ばれる人々を奴隷扱いしていましたが、
ヨーロッパ人が持ち込んだ病原菌、
特に天然痘、
そして虐待によって、
1500年代中頃には200万人いたとされる原住民の数が、
1600年代初頭には50~80%も減ったと考えられています。
1538年には、
各地で横行していたスペイン人による
原住民への虐待に見かねたスペイン王カルロス1世によって
「原住民の奴隷化禁止令」が発出されていますが、
その後も止まず、
上記の膨大な数の原住民の人々の命が失われたのです。
(持ち込まれた病気も含めてスペイン人によって)
減少していた原住民の人口、
奴隷化していた原住民の手を失ったことにより、
アフリカの人々を奴隷として取り入れ、
原住民の穴埋めをしたわけです。
特にひどかった時代というのが、
スペインの王家、
ハプスブルク家がポルトガルも統治していた1580年~1640年の60年間、
フェリペ2世から4世までの時代に、
奴隷取引は活発を極めました。
ベラクルス:アメリカ大陸の奴隷化の原点
メキシコへの上陸は、
後にカンペチェからも上陸可能になりますが、
主にはベラクルス港からで、
その後メキシコシティで売買され、
全国各地に連れていかれました。
現在彼らの子孫が居住しているのは、
最も多いのがアカプルコがあるゲレロ州、
そしてお隣オアハカ、ベラクルスと続きます。
アカプルコとオアハカは、
植民地化の初期に、
エンコミエンダ制が早い段階で取り入れられた地域で、
主に綿花やサトウキビ農園で働かされました。
そうした人々の子孫が、
今でも同地域に多く居住しています。
当時の奴隷としての生活から逃れた人達も少なからずいて、
彼ら一部はベラクルスのジャンガ(Yanga)などの地域に逃れてコミュニティーを作ったのです。
👆冒頭の写真
そのためゲレロ、オアハカ、ベラクルスで、
アフリカ系の人口の約2割を占めると言われています。
次回はアフリカ系大統領の誕生です~
アフリカ系の人々・3/3メキシコ発【キオテ通信】バックナンバーはこちら!
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