チャプルテペック城の話
メキシコ在住15年目、
「メキシコの素顔を世界に!」
をモットーに、
メキシコ公認ツアーガイド兼ドライバーの岩﨑コウです。
チャプルテペック城の話
☝チャプルテペック公園の入り口。奥がチャプルテペック城
前回はこちら~
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さてさて、
スペイン語も知らず、
メキシコがどこにあってどんな国なのかも知らない
新皇帝マクシミリアノが、
彼の居をチャプルテペック城に定めたという所でした。
ガイドブックにも出て来る
「チャプルテペック」って、
Chapultepecと書くのですが、
これはナワトル語が語源の造語なんです。
ChapulはChapulinから、
TepeはTepetlです。
Chapulin(チャプリン)はイナゴですね。
今でもチャプリンはプエブラやオアハカでよく食べられます。
実は僕も好きで、
メスカルをチビチビやりながらつまみます。
☟コレです。
Tepetlとは山とか丘。
最後の「場所」を意味するCを付けたものです。
その名の通り、
このお城がある所というのは、
丘陵地なんです。
☟こんな感じ。
☝グーグルマップより。こんもり丘になっているのがわかりますでしょうか。
前方はメキシコシティ中心部に延びるレフォルマ通り。
考古学的な観点から、
プレクラシコ期(紀元前2500年以降から前200年ごろまで)
のものと思われる土器などが見つかっているんです。
メキシコ盆地は昔湖でした。
チャプルテペックは、
その湖の西岸にあたります。
☝チャプルテペック側(西)から東に向かってみたメキシコシティ中心部。(スペイン人の入植直後のものか)
☝メシカ(アステカ)時代のメキシコシティ。
「メキシコシティ中心部」の矢印がある辺りがチャプルテペック。
今日、
首都メキシコシティがある一帯の、
最も初期の段階の住人が、
このチャプルテペック一帯に居住していたと考えられています。
「それって有名なアステカ人?」
いいえ、
年代がメシカ(アステカ)より3000年ぐらい前です。(苦笑)
感覚的に、
今日この日からソクラテスのギリシャ時代と同じような、
またはそれ以上の時間です。
そのアステカ人、
正確にはメシカ人は、
1200代に北西の方から来た移民集団、
ってことはどこかのブログにも書いたと思いますが、
メキシコ盆地に到着した時は、
既に居住していたアスカポツァツルコ人の奴隷だったようです。
その時、
このチャプルテペック一帯に囚われていたと考えられています。
後にメシカ帝国という大帝国を造ることになるメシカ人がですよ。
そのメシカ帝国ができた時には、
このチャプルテペック城がある丘は神聖な場所とされていたんです。
しかも貴重な水源地帯だったんです。
ヴィレイナト(スペイン植民地時代)に入ると、
1530年に正式に植民地政府の所有となり、
スペイン植民地総督の保養地となります。
1785年に、
いわば総督の別荘として、
このチャプルテペック城の建設が始まるのです。
それから25年後に、
あの独立戦争が始まり、
総督達は優雅に保養している場合ではなくなります。
1821年には、
「スペインの植民地」ですら無くなってしまい、
その後1833年からは、
メキシコ合衆国軍の本部として使われました。
43年から47年は、
軍の養成所として機能し、
47年にアメリカ軍に攻められた際に、
有名な「6人の少年の英雄」の逸話が生まれるのです。
翌年48年に、
かの有名な、
国土の52%を失う「グアダルーペ条約」
の悲劇が起る事になります。
チャプルテペックとチャプルテペック城って、
そんな歴史があるんです。
そこに、
このヨーロッパ生まれのお坊ちゃん(マクシミリアノ)が住み着く事になるんです。
このお坊ちゃんは、
ヨーロッパ時代の住居をそのまま再現しようとし、
ネオクラシック調、でも細部はバロックとこだわり、
大改築を施します。
☟居間はこんな感じ。故郷のソレと瓜二つです。
☝故郷
☝チャプルテペックを改装後
そんな風に、
彼と彼の妻カルロタが理想としてきた生活が始まったのでした。
しかぁ~し、
そんな「実体のない」皇帝という肩書なんて、
使い物にならないんですね・・・
彼を襲う「現実」とは・・・・。
#MexicoCentralTours
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