メキシコが半分以上の領土を盗られたとき。

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メキシコ在住20年のプロガイドが書くメキシコブログ。

今野球で熱いカリフォルニア、昔はメキシコだったんです。カリフォルニアにスペイン語由来の地名が多い理由を紐解きます。

アメリカとメキシコの国境
左がアメリカ、右がメキシコ

メキシコ、実はもっと大きかったんです。

領土問題について何回か書いて来ましたが、 一応今回が最後です。(汗)  

前置きはほどほどにして早速ですが、(笑)  

1800年代中頃、 日本は江戸時代後期、 アメリカの“侵略”によってメキシコは広大な領土を失います。  

日本はペリーの黒船が来る17年前、 王政復古の大号令の31年前。  

まず 1836年4月にテキサスを失いました。 

カンクンやセノテがあるユカタンや北部の5州も独立の瀬戸際です。  

1846年 更にアメリカは4手に分かれてメキシコ領土を目指します。 

目的はカリフォルニアとニューメキシコの取得です。  

アメリカの侵略で半分以上の領土を喪失

薄い青の部分が1848年のグアダルーペ条約で、 濃い青の部分がLa Mesillaで1853年に失われました。  

テキサスを失った11年後、

アメリカ侵略軍は 1847年9月13日にメキシコシティに入り、

チャプルテペック城を攻め落とし、

翌日14日にメキシコシティを占拠するのですが、

あろうことか当時の大統領サンタ・アンナは辞職し、

コロンビアのトゥルバコに国外逃亡。  

翌年48年にサンタ・アンナの後を“ついだ”マヌエル大統領が、

当時のメキシコ領であった カリフォルニア、コロラド、ニューメキシコなどを含む250万㎢の割譲に合意する 「グアダルーペ条約」にサインをし、 メキシコは55%もの領土を失ったのでした。 

その後もグダグダの内政

一応アメリカはメキシコ側に1300万ペソを支払をしましたが、、、 奇しくもほぼ同じ時期にカリフォルニアのサクラメント近くで金鉱が見つかりゴールドラッシュが始まりました。  

この割譲の後、 サンタ・アンナは何食わぬ顔でメキシコに戻り再び大統領の座に就き、

1853年にソノラ州の北側の7万6千㎡のLa Mesilla地区を 1千万ドルとオアハカのテワンテペック地峡の運河建設の権利と引き換えにアメリカ側に割譲(ていうか販売)しました。

54年にサンタ・アンナは再びコロンビアに逃亡します。 

事実上の国外追放でメキシコの地を踏むことができなくなります。  

ここまでがメキシコが独立後、 グアテマラからコスタリカを失い、テキサスを失い、カリフォルニアとニューメキシコを失い、更にはLa Mesillaも、全部で6割近くの領土を失った大失態、そしてアメリカにスペイン語の地名が多い理由の経緯です。  

今は威張りまくっているアメリカですがメキシコとの関係は奥が深いんです。  

DNAは今でも「メキシコ人」

メキシコと国境を接するアメリカ南西部では 「メキシコ人は出て行け!」 と平気でいう“アメリカ人”がいますが、、、  

以前、 メキシコの航空会社アエロメヒコがアメリカ南西部の住民にDNAテストを行い、

メキシコ人の血の割合によって メキシコ行きの航空券のディスカウントを行うという ユニークな企画を立ち上げました。

被験者の内54%にメキシコ人の血が流れていて、

各々そのパーセンテージは上下しますが、

上は22%下は3%とという結果でした。  

その理由は このようなメキシコの歴史から知る事ができるのです。

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Ko Iwasaki
メキシコ在住20年のプロガイドです。 「自己紹介」はメニューの「ガイド&ドライバー紹介」よりご覧ください。