メキシコの歴史、文化、芸術の中心地メキシコシティ

 

メキシコシティとは

メキシコ(México)という国名の語源は、1519年にスペイン人が渡来する以前にメキシコ盆地に住んでいた民族の一つ「メシカ(Mexica)人」の言語ナワトル語に由来します。首都メキシコシティ一帯は昔ウサギの形をした大きな湖でした。

その湖の中央部に1つの島がありました。そこが後にメシカ(アステカ)帝国の首都テノチティトラン(Tenochtitlan)となり、今のメキシコシティの中心であるソカロ(Zocalo)がある一帯となります。現在残る湖は北のスンパンゴ(Zumpango)、ソカロの東側のテスココ(Texcoco)、南部のチャルコ(Chalco)のそれぞれ一部です。

メキシコシティは今日ラテンアメリア経済のなかで最も重要な都市の一つです。歴史の観点からも上述の通り1521年のスペイン人の入植以前は、1460年頃からアステカ(正しくはメシカMexica)帝国が栄えていました。さらに古くは、メキシコシティの北東約45キロにあるテオティワカン(Teotihuacan)文化がBC200年からAD750ごろまで栄えていました。

 

「メキシコ」の歴史

メキシコ(México)という国名の語源は、メシカ(アステカ)帝国の伝説に由来します。有名なアステカという言葉は、昔アステカ人が住んでいたアストランという島に由来します。その地は未だに様々な説があり特定が出来ていないのですが、メキシコシティから北西部、今のナヤリットやサカテカス辺りだと考えられています。アストランという地名に、ナワトル語で「人」を表す「カ」を語尾に付けて、アストラン出身者を「アステカ」と呼ぶようになりました。アステカ人の間には「月」を崇拝する習慣があり、その月の神をメシトゥリまたはメシと呼んでいました。Metzitliと書きます。そのアステカ人の中にある戦士でありリーダーがいました。彼の名はウィツィロ・ポシュトゥリ(Huitzilopochtli)。彼らは神からの「お告げ」を受けます。それは「ノパル(サボテン)にとまる一羽のワシがヘビを咥えている島に、アステカ人の首都を造るのだ」というもの。お告げを受けたウィツィロ・ポシュトゥリ率いるアステカ人を、彼らの月の神メシトゥリ神の従者を意味する「メシカ」と呼ぶようになります。これにも語尾に「カ」を付けて人という意味にしたのです。時は流れ、アステカの戦士ウィツィロ・ポシュトゥリの後継者たちは1325年(2の家/2 calli)に、今のメキシコシティ中心部ソカロがある一帯にあった「島」に、メシカの首都テノチティトランを建設しました。有名なウェイ・テオカリ(Huey Teocalli)通称テンプロマジョールの右側の台形の建造物がウィツィロ・ポシュトゥリに捧げられているのはこのためです。そして、メシトゥリ神にナワトル語で「場所」を意味する「コ」を語尾につけて「メシの場所」、つまり「メシコ=Mexico」となったわけです。当時はスペイン語のXをS行で発音していましたが、今はH行ですので、Mexicoと書いて「メヒコ」という国名になったわけです

☝メシカ時代のテスココ湖
赤い丸が現在のソカロがある歴史地区昔は島でした。
その周りの黒い線が現在のメキシコシティ。
赤丸の右側(東)が空港です。

 

メキシコシティの素顔を効率よくご案内します。

私どものツアーではもちろんご希望であればガイドブックに載っているような観光地に真っ先にお連れすることは出来ますが、地元住民の食糧庫とも言える市場“メルカド(Mercado)”や、遠くて行けない地方の郷土料理が食べられる小さな小料理屋だったり、地元の人しか行かないようなポソレ(Pozole)屋だったり、メキシコ人に紛れ込んで庶民の食べ物タコス(Tacos)をほお張ったり、よりリアルなメキシコを肌で感じて頂けます。

それらの場所はもちろん”有名”でもなければガイドブックにも載らない庶民的な場所であるが故、一般的なツアーでは行くことが出来ません。

 

メキシコシティの写真ギャラリー

ベジャスアルテス劇場

グアダルーペ寺院

ローカルの市場

ソチミルコの伝統的農法チナンパ地帯

メキシコシティ中心部歴史地区のマデロ通りと青タイルの家

アステカで知られるメシカ帝国の首都テノチティトラン跡

数々の歴史的事件の現場へご案内します

1870年代のメキシコシティ(北から南方面)

メソアメリカを代表する大都市の一つテオティワカン

テオティワカンとは

どの民族が居住していたのか、政治の仕組み、衰退の理由が不明など謎が多い文化です。紀元前200年頃にオトパメ(Otopame)族によって建設が始まり、AD650年頃に最盛期を迎え、その後急激に衰退し750年頃には住民がいなくなったと考えてれていますが、その理由は依然として解明されていません。広さは24㎢に達し、多い時には20万人もの人々が暮らしていたと考えられています。

 

テオティワカンの語源

Teotihuacanとはナワトル語で「人々が神になる場所」。TeoはTeotlという「神聖な場所」、TihuacanはTehuacanで「神になる場所」という意味です。他には「Teohuacan」という説も2018年に提唱されましたが、その真相については未だ解明に至っていません。テオティワカンという名称はアステカで知られるメシカ人によってつけられたもので、それ以前の元来の名称も未だ解明されていません。

 

テオティワカンの特徴

綿密な都市計画に基づいて築かれており、南北を綱抜く「死者の道」(注:当時は道という概念が無かったため、一般的な説明にでる「道」という訳は基本間違いです)は5㎞にもおよび、下は耕地へと続き、北は「月のピラミッド」(注:メキシコの考古学においては宗教的建造物という言い方をします)で終わっていますが、その延長線上は背後の丘陵Cerro Gordoの頂上に向いていています。他の多くのメソアメリカの宗教的建造物と同じように、2月12日に昇る日と東方に見える山に合わせて設計されています。階級社会でありメソアメリカ各地の多様な文化による共同運営がされた「国際的」な都市国家であったことは明らかで、南はグアテマラのマヤ文化、北はサカテカスのあたりの人々とも交易があったようです。メシカ(アステカ)の創世神話の中でテオティワカンは「時が始まる場所」として描かれました。その神話の中では、「新たな時」が始まる時、暗黒の中で火を焚き、その中に二人の神が入り生贄となり、天に昇り太陽と月になった、とされています。太陽と月のピラミッドもメシカ(アステカ)人がそれらの神々を拝むためにそう名付けました。この都市設計は後にトゥラやテノチティトランでも踏襲され、トラランカレカで“発明”されたタルゥドータブレロ(Talud-Tablero)という段々状の建築様式も、この時代にこの場所からメソアメリカ各地に広がりました。

 

テオティワカンの写真ギャラリー

太陽のピラミッド

死者の道

メソアメリカ各地でも見られる謎の階層造り

テオティワカンの北からの眺め

「羽毛のヘビ」の神殿

トラロカンに残る「地下の世界」を描いたと考えられている壁画

 

こんな方々におススメです!

  • 「メキシコの素顔」を感じたい方
  • 時間がない方
  • 女子旅
  • 性的少数者(LGBTQ+)で羽を伸ばしたい方
  • 文化・歴史が好きな方
  • ご高齢の方や御身体に不自由がある方でメキシコを存分に楽しみたい方
  • 悶悶と過ごしている老若男女
  • 少人数での記念旅行(卒業旅行、お誕生日、結婚記念、還暦祝い、親孝行など)

もちろん、上記の方々以外の方でも大歓迎です!

 

 

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